2018年6月メッセージ「仏教とキリスト教」

牧師からのメッセージ

2018年6月24日メッセージ
「仏教とキリスト教」
石井田直二

私たちのパートナーであるタイの人々がカンファレンスを行ったので、先週はそれに出席するためにバンコクを訪問してきました。タイも日本と同じ仏教国で、街角には小さな祠と言いますか小さな仏様を飾った祭壇があります。
でも、日本の仏教が北伝であるのに対し、タイの仏教は南伝で、考え方は同じではありません。そこで今日は、南伝と北伝の仏教の違いと、キリスト教の考え方についてお話ししてみたいと思います。
なお、仏教もキリスト教も膨大な教えで、簡単に全容を説明するのは不可能ですから、今日のお話は、非常に単純化していることをご了解ください。まず、仏教のことをご紹介して、次にキリスト教の考え方をお話ししましょう。

仏教の教え

仏教の背景にあるインドの世界観は輪廻転生、つまり人は何度も生まれて死ぬことを繰り返す、というものです。そこで人々は、善い行いをすると次は良い世界に生まれ、悪い行いをすると悪い世界に生まれると考えていました。
約500年前にインドで生まれた釈迦(ゴータマ・シッダルータ)は、この輪廻転生のサイクルは、ただ苦しみの連続であると知ったのです。しかし彼は、自己存在には「主体」が無いのと悟り、もう輪廻転生しない(ニルヴァーナ:冷えて消えて固まる、自分が消えてしまう、解脱する)という境地に至りました。釈迦は「四諦八正道」という、それに至る修行の道をも示したのです。
そこで、この教えを聞いた出家修行者(比丘)らは、釈迦の教えに従って修行をしました。こうして仏教は誕生したのでした。(原始仏教)
しかし、この教えは重大な問題を含んでいました。つまり、こうした高度な哲学的思考のできる素質を持つ人は稀で、しかも、それに集中できる恵まれた環境に置かれなければ、悟りに至ることができません。これは「エリート」のための教えであり、一般の人には役に立たないのです。
そこで、何百年かを経て、この問題に対する様々な解決策が示されました。その解決策は、宗派によって驚くほどに違っているので、順に見て行きましょう。

南伝仏教(上座部仏教)

タイなど、南方に伝わった仏教は「功徳」を蓄積するというシステムです。つまり、修業はできなくても、寄付などで誰かの修行を助けた人は、その人の得るものに「あずかる」ことができるというわけです。
特に、家族の中で、たとえ短期でも出家した人があると、その功徳はとても大きいので、一族が利益を受けます。そこで、タイにおいては、子供の1人がキリスト教徒になると、それは「親不孝」とみなされるため、家族のしがらみでクリスチャンなることをためらう人が多いとのことでした。
しかし、興味深いことに中国系の人にはそういう考え方はなく、個人主義なので、宗教を変えることに抵抗感は少ないと言います。ですから、中国系の人の方がクリスチャンになりやすいのです。
南伝仏教は、ヒンドゥーと混交しているのが特徴で、日本名で言うと「迦楼羅、大黒天、帝釈天、吉祥天、歓喜天、梵天、毘紐天」などが仏教と入り混じって礼拝されています。これらの神々は日本でも仏教と関係が深いことはご存じの通りです。仏教は他の宗教を取り入れやすい性質があるのです。

北伝仏教(大乗仏教)

これに対して、北に伝わった大乗仏教は、新たな枠組みを示しました。それは「大乗:マハーヤナ」と呼ばれる一連の考え方で、それは(大きな船)と呼ばれました。つまり、船に多くの人々を載せて一度に救済するという考えです。日本の仏教は全て大乗です。彼らは旧来の教えを「小乗」と呼びましたが、これは蔑称なので、今日ではあまり使われません。
大乗仏教は多様ですが、日本でメジャーな禅宗系、浄土系、密教系、法華経系の4つを取り上げてみましょう。
まず禅宗は、原始仏教と同様に悟りを重視します。しかし、たとえば般若心経という有名な経典には「無無明亦無無明尽」(無知も無いし、無知がなくなることもない)という言葉があります。要するに無知を克服するために努力することもまた不必要である、という、何か分かったような分からないような理論を導入。釈迦の説いた「四諦八正道」をも「無」だと否定し、一気に悟り(彼岸)の世界を目指すのです。
一方、浄土系、密教系、法華経系はいずれも、釈迦という一人の人間を超えた、永遠の仏(あるいは如来)が人々を救うと考えます。
浄土宗では「阿弥陀如来」という人が登場します。阿弥陀は、彼の名を呼ぶ人々を必ず極楽浄土に転生させると誓ったので、彼の名さえ呼べば救われるというのです。信仰の到達点は「ニルヴァーナ」ではなく理想世界への転生なのです。この教えはキリスト教に酷似しているので、その影響を強く受けたと見られています。
また、密教(天台宗や真言宗)は、瞑想によって永遠の仏と合一化するという、新たな方法を導入しました。そして、法華経系の宗派は、法華経という経典に説かれた世界の終り(末法思想、一種の終末論)の予言をもとに、社会変革を目指します。
こうして概観すると「仏教」というジャンルで一まとめにされているものの、実は大きく異なる教えの集合体であることがわかります。

キリスト教の教え

さて、キリスト教に話を進めましょう。仏教同様に、キリスト教も複雑に教派が分かれています。紀元35年頃にイエス・キリストから始まった教会は、最初は統一を保っていましたが、8世紀頃に東西教会に分かれました。そして東方教会は国ごとに細かく分かれ、西方教会も16世紀に宗教改革でカトリックとプロテスタントに分かれました。その後プロテスタントは非常に細かく教派が分かれ、私たちクリスチャンでさえ、その違いはよくわかりません。でも、教えの根幹はすべて共通なのです。
仏教とキリスト教の違いを説明するには、まず神様と仏様の違いから始めなければなりません。キリスト教の神は世界を創造し、今も所有しておられる方です。一方、仏陀は世界の創造者でも所有者でもないのですが、世界の問題点の「解決者」なのです。ですから、前述のように、宗派で様々な方法論が生まれて来るのは当然でしょう。一方、キリスト教においては、世界の創造者であり所有者である神が、ご自分の責任で問題点を解決されます。
聖書の教えによれば、神は人間を自分のかたちに創造されました。確かに、人間は動物と違って、素晴らしい能力を持っています。鉄器も作れるし、火も扱えるし、農業もできるし、今では宇宙ロケットやスマホも作れます。でも、それらがみな殺し合いとテロや犯罪の道具になるのです。
なぜそんなことになるのでしょうか。それは、人間が神の意図に従わず、自分勝手に生きることを始めたからです。そして、お互いに憎み合い、殺し合っているのです。これを「罪」と言います。神は人間を罪と死のサイクルから救おうと、様々な方法を試みましたが、人間があまりに頑固なので、うまく行きません。そこで神は、人を救済するため、ついに自分の子であるイエス・キリストを地上に送り、人間を救済しようとされました。そして、悔い改め、信じて彼の名を呼ぶものは、誰でもその恵みにあずかることができるようにされたのです。これを「良い知らせ」あるいは「福音」と言います。「恵み」は、キリスト教の重要な概念で、人の意志や努力によらず、神からの一方的なプレゼントであることを意味します。

3:16 神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。

仏教の教えは、宗派でバラバラです。しかし、キリスト教の教えは、以上の点では、どの教派も全く同じです。もし、これと違うことを教えている団体があるなら、それは「キリスト教」ではありません。

神様が用意された恵み

最後に、タイを訪問した時の体験をお話しします。私たちが泊まったホテルは、ツインルームで一部屋約八千円、一人当たり四千円という安さですが、驚くほど広い部屋でした。情報交換のために、インドの友人と相部屋にしたのですが、彼が到着するのが遅れ、最初の夜は1人で泊まることになりました。
翌日になって到着したインドの友人は、机の上にある、フルーツが山盛りになったバスケットを指差して「これは何だ」と聞きました。そのバスケットが机の上にあることには気付いていましたが、特に食べたいわけでもなく、深く考えていませんでした。「わからない」と私が答えると、「たぶん、食べた分だけ料金を取られるシステムだろう」と言うのです。確かにそうかもしれません。
あまり深く考えないまま、4日間のカンファレンスの日が過ぎて行きました。毎日、朝早くから夜の10時頃まで様々なミーティングがあり、ホテルでは電子メールを処理してシャワーを浴びて寝るだけ。フルーツのことは、ほとんど忘れていました。
最後の朝、インドの友人は朝の3時、私は朝の5時半の出発です。朝の5時に起きて荷物をまとめ、フロントでチェックアウトの手続きをしました。このホテルは、チェックアウトと同時に係員が部屋を点検するシステム。そこで「フルーツバスケットはどうした」と聞かれました。「我々は全く手をふれていない」と言うと、受付の女性はあきれて「あれは、主催者の女性たちが、チェックインの前に部屋に届けたプレゼントです」と言うのです。
何ということでしょう。私たちはせっかくの好意を台無しにしてしまったのです。プレゼントだと知っていても、たぶん食べる時間が無かったでしょうが、手もふれず、お礼も言わなかったことが悔やまれました。とりあえず、持ち帰り可能なドライフルーツだけをスーツケースに詰め、ホテルを後にしました。
キリストが伝えた「良い知らせ」は、このフルーツバスケットのようなものです。神様はあなたの救いをタダで用意しておられるのです。あなたがこの世界を去る時「あのフルーツバスケットはどうした」と聞かれて気付いても、その時はもう手遅れ。どうか、神様があなたのために用意された恵みを、早く受け取っていただければと願います。

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SKK 聖書研究会 大阪センター
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