2019年1月メッセージ「人間はなぜ創造されたのか」

牧師からのメッセージ

■日曜のひとときを聖書と共に「日曜礼拝」
日時:2019年1月20日(日)午前10時30分~12時
テーマ:人間はなぜ創造されたのか

今年は「亥」年   神戸市東灘区のイノシシ

今年は亥年です。年賀状で多くの猪のイラストを見ました。実は、私が住んでいる神戸には「イノシシ条例」というのがあります。神戸はイノシシと人間が共生する町なのです。

東灘区には天上川(天井川ではない)という川があり、季節が良いと、毎日イノシシが川の水辺に出没しています。市街地では道路と川の面まで段差があり、イノシシが道路まで来ることはないので、安全に見物することができます。
ここにイノシシが来るのは、一部の人々が餌を与えるからです。六甲山にはイノシシの食べ物になる木の実や木の根、ミミズは豊富にあるのですが、人間がおいしくて栄養満点の食べ物を与えるため、それに味をしめて降りて来るのです。
天上川でイノシシを見るのは安全ですが、山の近くに行くと一般道路にイノシシが出没します。そして、年間に何人か負傷者が出ます。食品を入れたスーパーのビニール袋を持っていると、イノシシに襲われて奪われることもあります。
そこで、市役所は「イノシシ条例」で餌付けを禁止し、パトロールまでしているのに、住民は言うことを聞きません。彼らは、余った食品をイノシシにやっているわけではなく、お金を払って野菜を買って、イノシシに与えているのです。禁止されているのに、なぜ監視の目をかいくぐって、お金まで払って餌をやるのでしょうか。考えて見れば不思議です。
しかし、どうも動物にエサを与えるのは人類の本能のようです。公園で鳩に、街角で野良猫に、奈良公園では鹿に、公園の鯉の池でも、人々はお金を払って餌を買い、それを与えるのです。
そんなことをしても何の益も無い、とお考えでしょうか。実はそうでもありません。動物にエサを与えて手なずけるという性質を持っているおかげで、人類は多くの種類の動物を家畜化し、貴重なタンパク源としてきたのです。そんなことをする動物は、人類の他にはいません。これは驚くべきことです。
なぜ、そうなっているのか。その秘密が、どうも今日の聖書の箇所に隠されているようです。

2つの創造物語 人(男)は最初に創造されたのか、最後に創造されたのか

今日は、創世記1章26~28節と2章4節~章末を学びます。これらの2つの創造物語が矛盾していることは、あまり真剣に議論されず、24時間×7日の時間で世界が創造されたかどうか、という点にばかり人々は注目します。
しかし、創世記2章4節の後半から始まる「地と天」の創造物語は、明らかに1章の物語の「続編」ではありません。2章で神は、なぜか男だけを創造し、最後に男のあばら骨から女を創造されます。そして、その間に、植物と動物が創造されるのです。
最初の七日間に、すでに創造されていた植物や動物を、エデンの園に順番に「神が連れて来た」という説明は困難です。聖書の言葉は、明らかに神がその場で土から作られた、と書いているからです。これは、人間的に言えば、全く別の物語だと考えなければなりません。
旧約聖書のこの部分でも、新約聖書の四福音書でも、聖書は複数の視点から一つの物事を記録しています。これは聖書の記述方法なのです。
創世記は3種類の原典から編纂されたという仮説が一世を風靡しましたが、最近では、そう簡単ではないことがわかって来ました。だいたい、誰か人間がこういう文書を「編纂」したとすれば、取捨選択するなり、多少表現を修正するなりして、つじつまが合うようにしないでしょうか。私ならたぶんそうすると思います。でも、聖書はそうではありません。人の思いを超えた、誰かの意志によって、このような、一見矛盾する2つの物語が私たちに提示されているのです。平面的に「文字どおり」に理解することを拒否して、「解釈」を要求するのが聖書の性質なのです。

だいたい、ある出来事を、異なる立場から描くと、異なる物語になります。昔、ジェニンで激しい戦闘があり、多くの人が死にました。西欧のメディアは「残虐なイスラエル兵士が、女性や子供まで虐殺している」と言いました。イスラエルは「卑怯なパレスチナ人は、女や子供を盾にして戦っている」と言いました。そしてアラビア語のメディアは「ジェニンでは女や子供までが命をかけて勇敢に戦った」と報道しました。どれも嘘ではありません。同じ事実でも、視点が違うと、こうも違うのです。

どちらの物語も一致する点は

でも、2つの創造物語には共通点があります。まず、人間が偶然による進化の産物ではなく、ある方(神)の意図によって創造された、ということです。1章では最後の被造物として、2章では最初の被造物として人間が造られます。
そして、人間は他の動物とは作られ方が違うのです。1章では「神のかたち」に創造されました。動物は神のかたちではありません。そして2章では、人間は他の動物と材料が違います。動物は「土」で作られましたが、人間の材料は「土のちり」です。そして、他の動物には吹き込まれなかった「命の息」が吹き込まれました。
これらの点を、細かく説明して行くと、時間がなくなってしまいますが、とにかく人は神による特別な創造物であり、どうやら、人間を創造することが、神の創造の目的だったと思われるのです。
これらの点で、2つの物語は完全に一致しています。

管理者としての人間 - 1章では動物 2章は植物

次の重要な点は、人が「管理者」としての任務を与えられていることです。1:26では、動物を「治める」という目的が示され、2:15では、園を「耕させ、これを守らせられた」と書かれています。2:5で、人が耕さないと草や木が生えない、という原則が示されているので、耕すのは植物のためであることがわかります。
エデンの園というと、アダムとエバは何もせずに一日中、フルーツを食べていたように考えがちですが、何と驚いたことに、彼らは広大なエデンの園を「耕し」「守る」という重労働をこなしていたようです。

ちなみに、イスラエルの乾燥地帯に行くと、人が灌漑をして耕さない場所には、ほとんど草木がありません。これは乾燥地帯の世界観です。人間が世話をしない土地は「草ぼうぼう」になる日本とは大違いなのです。
さて、1章と2章で管理者としての役目は同じですが、管理の対象が1章では「動物」であり、2章では「植物」であることに注意して下さい。これは、私の個人的な考えですが、1章は遊牧民族的な世界観、2章は農耕民族的な世界観ではないかと思います。遊牧民は、耕さなくても生えている草を家畜に食べさせているわけですから、人間が管理するのは動物だけでいいのです。ところが、農耕民は土地と植物のお世話をするのが重要課題で、家畜はそのための「助け手」です。水が無いと草も生えない、という観察も農耕民族らしいし、いきなり全地の話をするのではなく、限定された「園」を設定するのも、土地にこだわる農耕民族的視点でしょう。

ちなみに、遊牧民族的価値観と、農耕民族的価値観の相克は、カインとアベルの物語や、アブラハムとロトとの別れなど、旧約聖書に繰り返し登場するモチーフです。それがすでに、創世記の冒頭に示されるのです。

「治める」「従わせる」とは、どういうことなのか

さて、動物を管理する人類の特別な能力について、もう少し考えて見ましょう。創世記1:26で神は、生き物を「治める」のが人の目的だと言い、さらに1:28では「地を従わせよ」とも言っておられます。人間は実際に生き物を治めることができるのでしょうか。
以前、白浜アドベンチャーワールドで、オルカ(シャチ)のショーをプロデュースした人と一緒に仕事をしたことがあります。シャチは体重が最大10トン近くにもなり、人間の100倍くらいの大きさがあるのです。そんな大きな野生動物が、トレーナーの指示に従って芸をするというのは驚きです。
でも、その人は「オルカなんか、身体は大きいが子供みたいなもの」だと言うのです。体がいくら大きくても、知能がそれほど高くないので、結局は人間に頼り、一種の依存関係ができて、人に従うことになるのです。オットセイも、牛や馬も、ゾウやライオンでも、人に従います。これは人の持つ、驚くべき人の能力です。まさに人間は「万物の霊長」なのです。
ところが、ヘブル書2:5~8を読んでみましょう。

2:5いったい、神は、わたしたちがここで語っているきたるべき世界を、御使たちに服従させることは、なさらなかった。
2:6聖書はある箇所で、こうあかししている、「人間が何者だから、これを御心に留められるのだろうか。人の子が何者だから、これをかえりみられるのだろうか。
2:7あなたは、しばらくの間、彼を御使たちよりも低い者となし、栄光とほまれとを冠として彼に与え、
2:8万物をその足の下に服従させて下さった」。「万物を彼に服従させて下さった」という以上、服従しないものは、何ひとつ残されていないはずである。しかし、今もなお万物が彼に服従している事実を、わたしたちは見ていない。

これは詩篇8篇の引用ですが、ヘブル書は、万物がまだ人の支配に服従していない、と言うのです。確かに人間は部分的に地を従わせていますが、たとえば、ネズミやゴキブリは決して人間の命令には従いません。もし従うなら、殺虫剤や殺鼠剤は不要になるでしょう。
しかし、物語はそこで終わりではありません。「きたるべき世界」が来ると、実際に被造物が人に従うようになる、というのです。

未完成の世界

創世記1:27~28には、人が「神のかたち」に創造され、被造物を支配するというビジョンが示されますが、まだそれは実現していない、とヘブル書は言うのです。「神のかたち」であるはずの人間の現状を見ると、確かにすばらしい面はあるのですが、あまりに不完全です。だから、創世記1章の物語は「青写真」あるいは「完成図」であり、2章になって、それに至る実際の道筋が始まるのだ、とする見解もあります。
つまり、現実は1章に描き出される人間による被造物の支配は、「きたるべき世界」になって初めて実現するようなのです。
だからパウロはローマ8:19以下で、このように言っているのです。

8:19 被造物は、実に、切なる思いで神の子たちの出現を待ち望んでいる。
8:20 なぜなら、被造物が虚無に服したのは、自分の意志によるのではなく、服従させたかたによるのであり、
8:21 かつ、被造物自身にも、滅びのなわめから解放されて、神の子たちの栄光の自由に入る望みが残されているからである。

私たちは、信仰の目的が、自分が生きている間、心静かに生活し、死んでからは良い場所に行くことだと考えがちですが、どうやら、もっと大きな目的があるようです。人類は確かに、被造物を管理する能力を与えられたのですが、今や地球の破壊者に成り下がっています。人間が管理者としての責任を果たさないので、被造物全体が「滅びのなわめ」にからめとられて「実に、切なる思いで神の子たちの出現を待ち望んでいる」とパウロは言います。人間が罪を犯すと地が呪われるというモチーフは、創世記3:17、4:12にも登場します。
神は世界の管理者として人類を創造されたのですが、人が失敗すると世界中が呪われるのです。しかし神は、罪で一敗地にまみれた人を、メシアの苦難を通して救済し、創造の目的を達成されます。

動物に餌をやって飼いならす、という、人間の不思議な本能は、人に管理者としての能力と責任があることを示します。また、絶滅に瀕する動植物があれば、人類はそれを何とか守ろうとします。でも、それだけでは不十分なのです。
人間が本当に霊的に完成する事によって、虚無に服している万物が「神の子たちの栄光の自由」に入る。これはいったい、どういうことなのでしょうか。キリストはそれを成就するために来られました。人間として生まれた私たちは、その意味を真剣に考えなければなりません。

石井田直二

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SKK 聖書研究会 大阪センター
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