2019年2月メッセージ「アダムとエバはどこで間違えたか」

牧師からのメッセージ

■日曜のひとときを聖書と共に「日曜礼拝」
日時2019年3月13日(日)午前10時30分~12時
テーマ:アダムとエバはどこで間違えたか

本日は、創世記の中でも珠玉の一節だと言われる、アダムとエバの失敗について学んでみたいと思います。この箇所から多くの芸術作品が制作されたことは、ご存じのとおりです。

発端は、エデンの園の中央に神が2本の木を植えられたことでした。それは、命の木と、善悪を知る木でした。そして神は、善悪を知る木から取って食べてはならない「それを食べると、きっと死ぬ」と言われたのですが、結局、人はそれを食べ、園から追い出されてしまいました。

この物語については、本当に多くの解釈があり、様々な角度から解き明かせますが、今日はまず「命の木」と「善悪を知る木」の持つ意味から考えて見ましょう。これらの2本の木が、重大な象徴的意味を持っていることは論を待たないからです。

命の木は永遠の命の象徴

絵画で圧倒的な人気を誇るのは「善悪を知る木」の方で、様々な構図で魅力的な赤い色の木の実が登場します。一方、命の木の絵の方は、ほとんど描かれておらず、主に「聖書の教えの説明チャート」にしか登場しません。そのような説明図でさえも、善悪を知る木との「違い」をどう出すかが難題で、黄色の実にしたり、木の形を変えたり、なかなか難しいようです。

命の木と、善悪を知る木、という名前から見て、それらが単なる木の実の種類ではなく、ある種の世界観や人生観を象徴していることは明らかでしょう。それらの木が実際にあったとすれば、それらの木は非常に効力があり、実際に人に影響を与えることができました。

善悪を知る木の「効能」について、私たちは聖書の記述からそれを知ることが出来ます。それを食べたとたんに、アダムとエバは目が開けて自分たちが裸であることがわかりました。

一方、命の木の「効能」は何でしょうか。3:22の神の言葉によれば、その実を食べると人は永遠に生きることが分かります。しかし、善悪を知る木の実を食べたアダムとエバが、命の木からも取って食べることを神は好まれなかったようで、3章の終りでケルビムと炎の剣を置いて、人が命の木の実を食べないようにされました。しかし神は、どうしても命の木の実を人に食べさせたいようで、「最後のアダム」(ローマ5:14、Ⅰコリント15:45)を通じて、神はそれを人に与える準備をされています。そして、黙示録2:7には勝利を得るクリスチャンにその実が与えられるとの言葉があり、さらに黙示録22:2には、新しいエルサレムにおいて、命の木が毎月実をつけると書かれています。「命の木」は、聖書全体を貫く重要な伏線の一つなのです。

善悪を知る木が意味するもの

一方、善悪を知る木の方は、聖書の中から消えて、二度と現れません。たぶん、一度食べたら十分な効果があったので、もう必要なくなったのでしょう。

さて、善悪を知ることは良い事なのか悪い事なのか。仏教思想は、善悪を分ける知恵を「分別知」、善悪を超えた知恵を「無分別知」と言いますが、これは善悪を考えることは悪い事だという見方です。でも、聖書の見解はそうではないようです。善悪を知る木以外の箇所を見ると、善悪を知ることは成長のしるしであり、また、メシア的な王の属性です。

  子供の成長:申命記1:39、イザヤ7:15

  神の性質:伝道の書12:14

  賢明な王:Ⅱサムエル14:7、Ⅰ列王3:9

そしてクリスチャンもまた、ヘブル5:14では、善悪を見分ける感覚を働かせて訓練されるべきであるとされます。善悪を判断できるは、重要な人間の性質なのです。

裸でも恥ずかしいと思わなかった

罪を犯す前の人間は男女が裸でいても恥ずかしいとは思わなかった(創世記2:25)、と聖書は記しています。これはちょうど子供のような状態です。人間がそのような状態に帰るべきだという、ヌーディストのような考えがありますが、聖書はそれを支持していません。神が創造されたそのままの状態である裸が良いという考えは、聖書の中にはほとんど見られません。聖書を通じて、裸は恥であり、良い事ではないのです。だから神は、人類を裸で追放せず、皮で衣を作って人に着せておられます。

裸が良くないという思想は、創世記9:21、ヨブ1:21、イザヤ20:4、58:7、エゼキエル16:7など多くの箇所で見られます。出エジプト28:42には、祭司が神の前に出る際に「隠し所」が見えないよう、衣服を身に着けるようにとの指示があります。神がその「隠し所」を創造されたのに、それを隠せと命じられておられるのです。

新約聖書でも、マタイ22:11、25:36、黙示録3:18などには、裸であることは良くないことであるとの説明があり、Ⅰコリント12:23には、からだの一部に着物を着せて見栄えを良くする、という考えが登場し、Ⅱコリント5:3にはキリストを着よという命令もあります。

実際、衣服を身に着けるのは人類の大きな特徴で、それによって人類は寒冷地にも進出し「地に満ちよ」(創世記1:28)という神の命令を実現して来ました。

そこで、「自分が裸であることに気付いた」ということ自体は、神の目指しておられる方向に物事が進んだのではないかとも考えられます。

へびの質問と女の答え

へび、女、アダムのやり取りは、本当に多くの人々がさまざまな角度から注解しています。これは、たぶん最も多くの人々が解釈を試みた聖書の一節の一つでしょう。

へびが「園にあるどの木からも取って食べるなと、ほんとうに神が言われたのですか」というのは、もちろん間違いであり、エバにわざと否定させる誘導尋問です。女の答え「わたしたちは園の木の実を食べることは許されていますが、ただ園の中央にある木の実については、これを取って食べるな、これに触れるな、死んではいけないからと、神は言われました」というのもまた、間違いを含んでいます。

「園の中央にある木」は、善悪を知る木だけではありません。命の木も園の中央にありました。どうも、彼らは命の木も用心して食べなかったようなのです。さらに「触れるな」も拡大解釈です。神は触れることを禁じられたわけではなく、食べることを禁じられたのでした。触れなければ食べることもないので、この拡大解釈は安全なように思えますが、逆に「触れても実際に死ななかったので大胆になった」という人々もいます。また、多くの人が指摘するのが「きっと死ぬ」を「死んではいけないから」にトーンダウンしたことが失敗のもとだということです。そして、これがアダムの間違いなのか、エバの誤解なのか、それについて聖書は何もかたりません。でも、どうもアダムはこのやり取りをじっと黙って聞いていたようなのです。

そこでへびは「あなたがたは決して死ぬことはない」と神の言葉を否定し、さらに「それを食べると、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となる」と断言します。ある意味で、へびの言葉には嘘はなかったのです。彼らはその実を食べるのですが、確かにその日に彼らは死なず、それから何百年も生きました。そして彼らは、目が開けて確かに善悪を知り、裸が良くないことを知りました。ただ、彼らが知った善悪は「神と同じ」ではなく「神のように」であり不完全なものだったのです。

罪を犯した人に対する神の対応

さて、ここで疑問になるのは、神がなぜ危険な木を園の中の目立つ場所に植え、さらに、狡猾なへびの侵入を許されたのか、ということです。机の上に毒のあるケーキを置いて、善悪もわからない3歳の子供に「これは食べてはいけない」と言い聞かせて留守番をさせ、そこに悪友が来て、一緒に毒ケーキを食べたら誰の責任でしょうか。もちろん親の責任です。

サタンは全知全能の神の裏をかいてエデンの園に侵入したのでしょうか。ヨブ記を読むと、サタンは神の許可を得てヨブを苦しめています。サタンは神の支配下にあり、神の許しがなければアダムとエバを誘惑できなかったはずです。

彼らが善悪を知る木の実を取って食べたのは、決して神にとって想定外のことではなかったと思われます。神は、人間が実を食べたことも、どこに隠れているかも良くご存じだったのに、あえて人に「あなたはどこにいるのか」と聞きました。これは、ヘブライ語で「アイェカ」という1単語で、とても深い意味があります。それは、アダムに自分の状況を悟らせ、悔い改めを促す一言だったのです。

しかし、アダムは自分の責任を回避し、エバのせいにしました。神はへびに一言も弁明の機会を与えませんでしたが、アダムとエバとは対話を試みました。罪は神と人との間を隔てるものではありますが、逆説的に言うと対話のきっかけを与えるものなのです。

カインとアベルもそうです。神とアベルの対話は聖書には記録されていませんが、神とカインの対話はとても詳しく記録されています。神は人が罪を犯すことを想定して、その解決策、つまり悔い改めの道を探させておられるかのようです。

ところが、結局はアダムもその息子も罪から脱却することができず、人類はますます神から離れて、ノアの洪水まで歴史は悪い方向に進みます。ローマ5:12は、一人の罪過によって罪が全人類を支配したと記しています。エノクのような例外もいましたが、結局、全人類を罪から贖うことはできませんでした。これが「罪の奴隷」という状態なのです。

私たちはこの物語から何を学べるのか

アダムとエバの失敗を学んでいると、私は放蕩息子のたとえを思い出します。弟は、父親から財産を分けてもらい、遠い国に行きました。これは、アダムとエバが「善悪を知る木」を取って食べたことに相当するのではないかと思います。弟は、「これでお父さんのように自分も主人になった」と考えたのですが、結局はすぐに破綻してしまいました。アダムの知った「善悪」も、これと同じで、とても不完全なものでした。結局、人は善悪を見分ける感覚を実際に働かせて、失敗を積み重ねて訓練され(ヘブル5:14)ないと、向上できないのです。

アダムとエバは、自分の責任で実を食べ、神から離れてしまいました。それは長い長い神と人のドラマの始まりだったのです。放蕩息子は、すぐに財産を使い果たして正気に戻ったようですが、人類はそう簡単には神のもとに帰れません。御子キリストを十字架で殺すという非常手段が使われたにもかかわらず、それから二千年の時を経て、いまだに大半の人間は神から離れています。

放蕩息子の父が、息子を信じて財産を分け与えたように、神は人を信じて園の中央に善悪を知る木を生やし、へびの侵入を許されたのです。アダムとエバが、どの程度、神の期待を裏切ったかはわかりません。それでもなお、忍耐強く神は対話を試みられました。

神は今も私たちに問いかけておられます。「アイェカ」、「あなたはどこにいるのか」と。素直に罪を告白し、神のもとに帰ることを神はじっと期待しておられるのです。私たちの悔い改めを待っておられる、神のもとに帰ろうではありませんか。

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SKK 聖書研究会 大阪センター
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