2018年11月メッセージ「明日のことを思いわずらうな」

牧師からのメッセージ

■日曜のひとときを聖書と共に 「日曜礼拝」

日時2018年11月11日(日)午前10時30分~12時

テーマ:明日のことを思いわずらうな (マタイ6:19-34から)

A)天上と地上~山上の垂訓の主題

山上の垂訓は、イエスの宣教初期の基本的なメッセージです。彼は「天国は近づいた」(4:17)と福音を語り始めました。山上の垂訓の冒頭も「天国は彼らのもの」(5:3)です。また、今日の箇所の少し前にある「主の祈り」にも、「御国を来たらせたまえ」(6:19)という一節があります。そして、今日の箇所の結論は「神の国と神の義を求めなさい」です。
これらの箇所に出て来る天国・神の国・御国は、すべて「王国」(原語はバシレイア)であり、同義語です。イエス何度も「神の国」「天国」について語りました。今日の箇所もそれが正しい理解の鍵となります。
「天国」というと、皆さんは何を想像されるでしょうか。ちなみに、一般のニュースで「天国」をキーワードに検索してみると、主に2つの用法が見つかります。一つは「天国の父も見ている」のように、すでに死んでいる人のことを意味する用法です。日本は仏教国ですが、こういう文脈では決して「極楽で…」とは言いません。そして、もう一つの用法は「歩行者天国」です。
イエスの語った「天国」は、この2つの用法の、どちらに近いでしょうか。私は「歩行者天国」の方だと思います。歩行者天国は、今まで優先権のあった自働車が優先権を失い、優先権の無かった歩行者が優先権を得ます。これと同様に、今の世界で優先権のある権力者は権力を失い、今の世界では無力な貧しい者の立場が入れ替わります。これこそが神の正義であり、神の国の本質なのです。
イエスの語った福音は、心の中だけの問題だと考えがちですが、そうではありません。彼の言葉は世界を変えるのです。実際、福音は残虐な偶像礼拝者だった人々の心を変え、芸術や文化に深い影響を与えました。
「思いわずらうな」という教えは、心の持ち方を説いているように考えがちですが、そうではなく「神の国」つまり世界を変えることが主題であることを見落としてはなりません。

B)天上と地上の違い 19-21

「思いわずらうな」は、6章19節から始まる一連の流れの結論です。そこで19節から順に、イエスが語る言葉を追ってみましょう。
最初の部分は「地上に宝をたくわえず、天に宝をたくわえなさい」という教えです。地上に宝をたくわえるのは、私たちがしていることなので、誰でもわかります。今では、経済や技術の発達で、虫が食ったり、さびがついたりするような形で富をたくわえることは、めったにありません。たいていの人は、銀行口座などに富をたくわえます。
しかし、ネットバンキングをすると、ハッカーにパソコンを乗っ取られて、多くのお金を盗まれてしまいますし、ネットバンキングを使わなくても「オレオレ詐欺」で財産を失います。銀行口座も、銀行の倒産やインフレで資産が減りますし、利子を得ようと株や債券、投資信託を買えばリスクを背負うことになってしまいます。たぶんイエスが現代に生きておられたら、投資信託の話をされたかもしれませんね。
というわけで、地上に宝をたくわえる危険性はわかりますが、「天に宝をたくわえる」とは、どういうことでしょう。献金箱にお金を入れると、天国に銀行口座があって、神様がそれを記録しておられるのでしょうか。実際、献金が大きな祝福を伴うことは確かですが、ここでイエスが言いたいのは「宝のある所には、心もある」という点、つまり価値観の問題です。

C)目はからだのあかり 22-24

しかし、それに続く「目はからだのあかり」(6:22)は、ちょっと難解です。でも、これがお金の使い方に関する教えの中に現れる点を考えると、意味が見えてきます。
昔の人は、目が光を感じるのではなく、目が光を発すると考えていました。日本語にも「眼光炯々」とか「眼光紙背に徹す」などの表現がありますが、詩編38:10には「わたしの目の光もまた、わたしを離れ去りました」という言葉があります。目から光が出るというのは物理学的にはナンセンスですが「冷たい視線を感じた」とか「温かい目で見てやって下さい」などの表現から考えて、目から光か何かが発している、というのが人間の自然な感覚ではないでしょうか。
「良い目の光」は、人に元気を与えるものです。実際、私たちは目で見るだけで人を元気にできます。イエスは私たちに「世の光」(5:14)になるように教えているのですが、目の光が澄んで輝いていると、私たちの全身が明るくなり、周囲の人も楽しくできるのです。
一方、目が悪いという表現は、悪意を意味します。悪い目で見るだけで、人を不幸にすることができると、中東の人々は信じていました。今でも中東で売られている「メドゥサの目」という魔除けをご存じでしょうか。ガラス製の目玉のような、ちょっと気持ち悪いものです。幸せな人は、周囲から羨望の目で見られるので、不幸になります。そこで、この目玉を身に着けておくと、その目線を跳ね返すことができると言われます。
そして、目が良い、目が悪いという表現は、困っている人に気前よく援助の手をさしのべるかどうか、という意味でも使われました。富を愛している人は、目の前に困っている人がいても、けっして支援しようとしません。これが、「神よりも富を愛する」という意味です。
というわけで、19~24節は全体として、お金を自分のためにたくわえるのではなく、人を助けるために使うようにと教えています。でも、貧しい人を見てお金を出し、いつも人のためばかりを考えていたら、お金がいくらあっても足りません。自分の生活の方が大事だ、というのが普通の考え方ではないでしょうか。

D)食物と着物 25-30

そこでイエスは「自分の生活のために思いわずらう」ことの無益さを教えます。自分のためにお金をたくわえる人は、衣食住のことを重視していますが、これらは単なる生命の維持手段にすぎません。ただ、食物と着物を得ることばかりを考え、時がくれば死んでいくだけなら、空の鳥や野の花と同じで、人間として生きている意味がないというわけです。
私たち日本人は、何となく空の鳥や野の花のような生き方が理想のように読みがちですが、よく読むと「あなたがたは彼らよりも、はるかにすぐれた者」だと言っています。
つまり、空の鳥や野の花でさえ衣食住が与えられているのだから、私たち人間はそういう低次元のことに血道をあげる必要は無い。空の鳥や野の花の世話をしておられる神は、かならずや私たちにも衣食住を与えて下さる、というのです。
空の鳥や野の草は、誰かが苦しんでいても助けたりはしません。しかし人間は、他人の苦しみがわかり、問題解決に手を貸すことができます。つまり、鳥や草と違って、崇高なミッションを遂行することができるのです。
注目すべきなのは27節の「だれが思いわずらったからとて、自分の寿命をわずかでも延ばすことができようか」です。人間には寿命があり、肉体的に永遠には生きられません。野の花と同じように、いつかは炉に投げ込まれるのです。ところが、最近では医療技術が進歩して、「インフォームドコンセント」などとやかましく言われるので、寿命のことで思い悩まなければなりません。

E)神の国と神の義 31-34

「思いわずらう」というのは、衣食住のことについて、つまり自分のためにあれこれ心配することです。それは「異邦人が切に求めている」とイエスは言います。なぜ異邦人なのでしょうか。異邦人とは、聖書においてはユダヤ人以外の人々、つまり神との契約関係が無い人々を指します。そういう人々は、自分の命と体を長らえることよりも高い目的を持っていません。だから、自分の命を長らえることを「切に求めている」のですが、それらは寿命が来れば消えてしまうもの。どんなに努力しても、結局は何の役にも立たないのです。
しかし、このメッセージの聴衆であるユダヤ人は、神との契約関係にあります。旧約聖書には、神に従ってさえいれば、衣食住は保証する(申命記28章、マラキ3:10-)と、何度も何度も書かれているのです。
神がイスラエルと契約をされたのは、彼らを通じて「神の国」を実現するという、神の側の重要な目的があったからです。そのために働くなら、衣食住は「すべて添えて与えられる」とイエスは説くのです。そう聖書に書いてあって、それをシナゴグで学んでいながら、神が面倒を見て下さることを信じないで、自分で自分の命を守ろうとしているから「ああ、信仰の薄い者たちよ」とイエスは嘆くのです。

しかし、聖書を読むと、神の国のため働いてさえいれば、衣食住が充足するとは限らないことがわかります。パウロは神の国のために熱心に働きましたが、食物も着物も無い時があった(Ⅱコリント11:27)と言っています。人間、定められた寿命はあるので、神の国のために働いていても、肉体はいつか死ぬのです。
では、やはり私たちは「自己責任」で自分の命を守るべきなのでしょうか。そうではありません。これは価値観の問題なのです。自分の命を長らえることは人生の最高の目的ではありません。いくら命を守るために思いわずらっても、最後に支払われる報酬は死(ロマ6:23)しかありません。それはとても無駄な「思いわずらい」です。しかし、神に導かれた人生には目的があります。神の国のために働く者の生活は、神が必要に応じて支えて下さり、仕事が終われば休みを下さいます。そうなれば「やっと仕事が終わって、休みが与えられた」と感謝します。だからキリスト教圏のお墓には「Rest in Peace 安らかに休んでください」と書かれているのです。
神との契約関係に入った人は、自分の生活のことを気にする必要はありません。私たちが神のご計画の成就のために生涯をささげると、神は生活の面倒を見て下さるのです。

さて、神の民となって、神に生活の面倒を見ていただく「特権」は、以前はユダヤ人だけに与えられていました。イエスが説いておられるように、異邦人である私たちは、衣食住を「切に求める」(6:32)以外に道は無かったのです。
ところが、ここに「良い知らせ」があります。異邦人も今やイエス・キリストを通じてこの契約に加わり、「神の国と神の義」のために働く道が開かれたのです。何と、すばらしいことではないでしょうか。ぜひ皆さんも神との新しい契約に加わり、神の国と神の義を求めていただければと思います。

講師:石井田直二

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SKK 聖書研究会 大阪センター
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