2018年12月メッセージ「ハヌカの祭」

牧師からのメッセージ

■日曜のひとときを聖書と共に「日曜礼拝」
日時2018年12月9日(日)午前10時30分~12時

テーマ:ハヌカの祭のメッセージ

A)宮きよめの祭

ユダヤ人たちはバビロン捕囚から、ペルシャのクロス王の勅令により帰還し、神殿を再建します。その少し後、紀元前4百数十年で旧約聖書の記述は終わります。一方、新約聖書の記述は、紀元直前の受胎告知から始まります。つまり約4百年余りの空白期間があるのです。これを「中間時代」(Intertestamental Era)と言います。
この時代の歴史を簡単にご紹介しましょう。

紀元前332年、ギリシャ北部のマケドニアから始まったアレキサンダー大王の遠征でペルシャは滅ぼされ、イスラエルはアレキサンダー帝国の支配下にはいります。大王はギリシャ文化とその偶像礼拝を東方世界にまで広めました。これを「ヘレニズム」と言います。
しかし、大王は32歳の若さで急逝し、国はプトレマイオス朝(エジプト)、セレウコス朝(シリア)、アンティゴノス朝(ギリシャ)の3つに分裂します。当初、イスラエルはプトレマイオス朝の支配下に入りますが、やがてシリアのセレウコス朝の支配下に入ります。その王朝のエピファネスという王はユダヤ人に偶像礼拝を強要し、神殿を偶像で満たしたのです。これに怒ったマカベヤ家が武装蜂起をして超自然的な勝利により神殿を奪還、再び奉献した事件を記念するのが「ハヌカの祭」です。日本語では「宮きよめの祭」あるいは「神殿奉献祭」などと訳されます。
ちなみに、マカベヤたちが戦った敵はセレウコス朝シリアでしたが、もとはギリシャだったため、イスラエルの敵はシリアともギリシャとも表現されます。また、多神教と一神教という意味で「ヘレニズムとヘブライズムの戦い」とも言われます。
この経緯は、中間時代の文献(新共同訳では旧約聖書続編)のマカバイ記に記されていますので、機会があればお読みください。
しかし、その後のマカベヤ一家は、あまり良いことがなく、兄弟間の争いでローマに助けを求め、結局、ユダヤはローマの属州になってしまいました。しかし、それはまた、福音のメッセージが一気にローマ帝国内に広がる条件を整えることになったのです。もし、イスラエルをマカベヤ家が支配し続けていたら、ヘブライ語で語られた福音が地中海世界に広がるのに、もっと時間がかかったことでしょう。

B)ハヌカの主題は「回復」

 

ハヌカの祭の主題と

してよく語られるのは、絶望的な状況下においても主が勝利をお与えになる、という教えです。1931年、ナチスの迫害が迫る中で、ハヌカキャンドルとナチスの旗を撮影した写真がありあす。「我らの光は彼らの旗よりも長く残るだろう」という言葉が添えられていました。まさにその通りです。
でも、私が今日、語りたいのは「一度汚された神殿も、再びきよめられる」という点

です。マカベヤの時代、神殿は偶像で満ち、祭司たちは信仰を失い、神の栄光は去っていました。でも、エルサレムの汚された神殿を放棄して、アテネやローマ、ニューヨークに新たな神殿を建てる、というのは神様のやり方ではありません。神殿を建てる場所は、エルサレムのあの神殿の丘しかないのです。たとえ神殿が汚されても、神様はそれを回復することがおできになるのです。マカベヤ一家は「神様はイスラエルを捨てられた」と言って他の国に移住するのではなく、無謀とも言える戦いを始めて、見事に勝利をおさめ、神の宮をきよめて再奉献しました。

さて、現在のキリスト教にも、マカベヤ時代の神殿と同様に、多くの問題があります。様々な教派に分かれて対立し、偶像礼拝ならぬ個人崇拝が横行し、偽教師、偽使徒、偽預言者がいると噂され、金権腐敗もあります。私たちの教会にも、様々な問題があることを素直に認めなければなりません。
かといって、「こんな腐ったキリスト教会には関わりたくない」と言って、既成教会と縁を切ろうとする動きは、いつも出て来るのですが、それは正しいやり方とは言えません。イスラエル回復を祈る人々の中には、異邦人の教会を見捨てて縁を切ろうとする人が多いのですが、これは残念なことです。神様の賜物と召しとは変えられることがありません。神の御名が冠されているのに、堕落してしまった組織や人々は、それを見捨てて新しいものを建てるのではなく、それを再びきよめ、建て直し、リバイバルをもたらして、神様の栄光を現すようにしなければなりません。
もし、汚れたものを切り捨てるのが神様のやり方なら、イスラエルはとっくの昔に切り捨てられていたことでしょう。イスラエル回復を信じる者は、教会の回復も信じるべきなのです。

キリストはエルサレムの神殿のことなど、どうでもいいと思っておられた、という考えは誤りです。彼は生後1ヶ月目にその神殿で祝福を受け、12歳の時には神殿を「父の家」と呼び、伝道の最初と最後にも、その神殿から商売人を追い出しながら「わたしの父の家だ」と宣言されたのでした。マカベヤたちが再奉献した宮は「キリスト登場の舞台」という重要な役割を果たしたのです。

C)イエスを取り囲んだ人々

さて、イエスは祭を背景にして様々なメッセージを語っていました。今日の朗読箇所は、イエスがハヌカの祭の時に語ったメッセージです。ヨハネ10:22からです。

10:22 そのころ、エルサレムで宮きよめの祭が行われた。時は冬であった。
10:23 イエスは、宮の中にあるソロモンの廊を歩いておられた。
10:24 するとユダヤ人たちが、イエスを取り囲んで言った、「いつまでわたしたちを不安のままにしておくのか。あなたがキリストであるなら、そうとはっきり言っていただきたい」。

ソロモンの廊とは、神殿の外周の聖域を囲む回廊で、多くの人々で賑わっていました。しかし、この祭は新しいもので、旧約聖書に定められた特別な犠牲などが無かったので、神殿の混雑はさほどでもなかったと思われます。すると「ユダヤ人たち」がイエスを取り囲んだのです。
彼らは「いつまでわたしたちを不安のままにしておくのか」と詰め寄りました。キリストならそうはっきり言えというのです。彼らはどうも、イエスがキリストであってほしいとは思っていなかったようです。イエスがキリストだと願っている人なら「不安」ではなく「期待」をしたはずですから。たぶん彼らは、イエスに自分がメシアだと言わせて、その言葉尻をとらえようとしていたのでしょう。
リベラル神学や無神論の人々は、イエスが自分からメシアだと言ったのではなく、弟子たちがイエスをメシアに「祭り上げた」のだと主張します。しかし、次の節にあるイエスの答えを読んでみましょう。

10:25 イエスは彼らに答えられた、「わたしは話したのだが、あなたがたは信じようとしない。わたしの父の名によってしているすべてのわざが、わたしのことをあかししている。

イエスは自分からちゃんと話した、と言っています。実際、ヨハネによる福音書だけから見ても、1~9章までに何度も「メシア宣言」と見られる箇所を見つけることができます。そしてイエスは「わざ」すなわち奇跡を数多く行っていることから見て、自分がメシアであることは明らかだと言います。彼は水をワインに変え、五千人に食事を与え、多くの病人を癒しました。
考えて見て下さい。日本人が福音を聞いてもわからないのは納得できます。行ったこともない遠い地で、二千年も前に語られた人のメッセージを信じよというのですから、これは無理な話です。だいたい、メシアと言われても、日本人の知っているのは「飯屋」ぐらいです。奇跡など、神話なのか実際にあったのか、今となっては知る由もありません。それなのに、信じている皆さんは本当に偉いです。(笑)

しかし、このユダヤ人たちは、旧約聖書も預言も熟知して、メシアが何か知っていました。彼らは、ヘブライ語を神学校で勉強したのではなく、原典を辞書なしに楽に読めるネイティブスピーカーでした。彼らはイエスがヘブライ語で語ったメッセージを、生で聞いて100%理解できたのです。私たちは、ヘブライ語からギリシャ語に翻訳し、それをまた日本語に翻訳して、少しピンボケになった聖書を、キリスト教神学の色眼鏡をかけて読んでいるですが、それとは大違いなのです。
その上、彼らは福音のメッセージを、イエス本人から直接、聞きました。私の下手な説明を聞いて理解できないというなら、それは当然のことでしょうが、彼らはキリストご自身から直接聞いたのです。それだけではありません。彼らはその目でイエスがなされた奇跡を見たのです。
また、今のユダヤ人は「キリスト教が悪質だから、イエスがメシアだとは信じられない」と異口同音に言うのですが、当時はまだ「キリスト教」など、影も形もありませんでした。
これは、イエスをメシアと信じるためには、考えられる「最高」の条件です。もし、これで不満だと言うなら「**があれば、彼らは信じたに違いない」という「何か」を言ってみて下さい。もう、私には思いつきません。

D)「わたしの羊」

では、彼らが信じなかった理由は何なのでしょう。皆さんはどう思われますか。その質問に、イエスは次の節で自ら答えておられます。

10:26 あなたがたが信じないのは、わたしの羊でないからである。

これは衝撃的です。イエスは「信じない人々は、わたしの羊でない」とは言っておられません。あくまで「わたしの羊でないから信じない」と言われるのです。信じられるか信じられないか、イエス、あるいは父があらかじめご自分の権威でお定めになっているのです。イエスは、少なくともこの場面では完全なカルビン主義者(神が主権によって全てを決定されているという神学)です。イエスはご自分の権威によって、誰が信じるかを、あらかじめ選んでおられるのです。
クリスチャンの方々に申し上げます。皆さんは、自分が賢こかったから、霊的に優れていたから、真剣に真理を求めたから、自分が努力したから、イエス様を信じることができたと思っておられますでしょうか。もしそうだとしたら、それは間違いです。私たちは、ここでイエスを取り囲んで詰問したユダヤ人たちよりも、優れているわけではありません。彼らよりもひどい罪人だったのに、恵みによって主に選んでいただいたのです。

10:27 わたしの羊はわたしの声に聞き従う。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしについて来る。
10:28 わたしは、彼らに永遠の命を与える。だから、彼らはいつまでも滅びることがなく、また、彼らをわたしの手から奪い去る者はない。

今日、ご参加いただいた、クリスチャンでない方々に申し上げます。今日の集会は、チラシで多くの市民の皆様に参加を呼びかけたのに、こうして数人の方々だけが参加されました。チラシを見た99.99%の人はそのままチラシを捨てたのに、なぜかあなたは参加されたのです。
それは、主イエスの呼んでおられる声を、皆様が聞き分けられたからなのです。それは、イエスが「私の羊」として皆さんをあらかじめ選び、ここに呼び出されたからです。「わたしは彼らを知っており」、つまりイエスは皆さんを知っておられるから呼び出されたのです。でも、それで話は終わりではありません。
「彼らはわたしについて来る」と書いてあります。ぜひともイエス様に従って下さい。そうすれば、「わたしは、彼らに永遠の命を与える」とイエス様は言われます。その永遠の命を、どうぞ受け取ってください。そして「彼らはいつまでも滅びることがなく、また、彼らをわたしの手から奪い去る者はない」のです。このイエスの言葉が皆様の上に成就しますように!

石井田直二

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SKK 聖書研究会 大阪センター
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