2018年8月メッセージ「契約書としての聖書」

牧師からのメッセージ

2018年8月12日 日曜集会「契約書としての聖書」
聖書研究会牧師 石井田直二

(聖書朗読箇所 エレミヤ書31章31~36節)
31 主は言われる、見よ、わたしがイスラエルの家とユダの家とに新しい契約を立てる日が来る。
32 この契約はわたしが彼らの先祖をその手をとってエジプトの地から導き出した日に立てたようなものではない。わたしは彼らの夫であったのだが、彼らはそのわたしの契約を破ったと主は言われる。
33 しかし、それらの日の後にわたしがイスラエルの家に立てる契約はこれである。すなわちわたしは、わたしの律法を彼らのうちに置き、その心にしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となると主は言われる。
34 人はもはや、おのおのその隣とその兄弟に教えて、『あなたは主を知りなさい』とは言わない。それは、彼らが小より大に至るまで皆、わたしを知るようになるからであると主は言われる。わたしは彼らの不義をゆるし、もはやその罪を思わない」。
35 主はこう言われる、すなわち太陽を与えて昼の光とし、月と星とを定めて夜の光とし、海をかき立てて、その波を鳴りとどろかせる者――その名は万軍の主という。
36 主は言われる、「もしこの定めがわたしの前ですたれてしまうなら、イスラエルの子孫もすたって、永久にわたしの前で民であることはできない」。

聖書はとても分厚い書です。読むだけで膨大な時間がかかります。こんな分厚い本の内容を、知りたい場合、皆さん、どうしたらいいと思いますか? 毎日数章ずつ、時間を決めて読みますか? よほどの根気がいりますね。今の人は、誰もそんなことはしませんよね。

もちろん、今なら誰もがグーグルで検索するでしょう。すると、ウィキペディアなどに短い「あらすじ」が見つかります。それを読めば5分で内容がわかります。

でも、昔はグーグルがありませんでした。そこで神は、聖書の随所に「あらすじ」を用意されたのです。そんな箇所の一つが、今日、朗読した箇所です。では一緒に学んでみましょう。

a.神とイスラエルの2つの契約

今日の朗読箇所には2つの契約が登場します。エジプトを出た時に結ばれた契約(旧約)と、新たに結ばれる約束(新約)です。聖書は「旧約聖書」と「新約聖書」に分かれていますが、それはこの2つの契約を指すのです。今日、皆さんがお持ちの聖書はみな、この2つを収録した合本ですが、新約聖書だけの冊子もよく見かけます。新約聖書は薄いので、それだけを持ち歩いている人もよくおられます。

さて、今日取り上げる古い契約、またの名をモーセ契約は、聖書の初めから10分の1くらいの部分、出エジプト記の20章あたりで登場します。この契約がうまく行っていれば、聖書はこんなに分厚くならなかったはずですが、実際、そうは行きませんでした。「彼らはそのわたしの契約を破った」(エレミヤ31:32)からです。でも、そこで話は終わりません。「民はいくら不忠実でも、神は忠実に契約を守る」というのが、聖書の基本パターンです。結局は、神は「彼らの夫」なので、愛のゆえに不貞の妻を捨てられないのです。何だか、かわいそうな神様です。

そこで神は「新しい契約」を持ち出されます。それこそが、イエス・キリストを通じて結ばれる「新約」なのです。古い契約も新しい契約も、その目的は同じ。「わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる」(31:33)ことなのです。

b.契約の目的

「契約」という概念を理解するために、中東やアフリカで行われる普通の契約について学んでみましょう。

皆さんは、アフリカ探検家で宣教師のリビングストン(1813-1873)という人をご存じかと思います。彼は何度かアフリカを訪れているのですが、ある時、ついに行方不明になってしまいました。そこで、スタンリーといいう人が捜索隊を率いてアフリカに入ったのです。

ところが、行く先々で原住民に道を阻まれて前に進めません。そこで、ガイドの人が強い部族の酋長と契約するよう勧めたのです。スタンリーは半信半疑でそれに応じました。彼らは互に腕に傷をつけて血を流し、火薬を擦り込んでその跡が残るようにし、贈り物を交換しました。スタンリーは山羊一頭をプレゼントし、酋長は名前を彫り込んだ古い武器をくれました。その後、他の部族に会った時にその傷と武器を見せると、みな態度が一変し、驚くほどに親切にしてくれたという話です。

(出典:Lifeschool International – Steps of Ancient Covenant Making)

海外旅行をする時に持って行くパスポートも似た効力があります。「日本国外務大臣は日本国民である本旅券の所持人を通路故障なく旅行させられるよう、関係の諸官に要請する」という趣旨の英文が書かれているので、日本という国があなたを保護するのです。時に強国は「自国民の保護」を理由に軍事行動を起こしたりしますので、パスポートに書かれた要請文は単なる言葉だけではありません。効力があるのです。

というわけで、この世の中には様々な困難がありますが、あらゆる霊、あらゆる名の中で最強の位にある「主なる神」と契約すれば、人生のどんな困難も全く心配ありません。これが契約の意味であり、今日の第一のポイントです。

c.祝福と呪い

契約の際にはしばしば、獣を2つに裂いて、その間を通る儀式を行います。そのような儀式が創世記15:7~21に記録されています。聖書をお持ちの方は、開けてみて下さい。神は何種類かの獣を「連れて来る」ようにアブラハムに命じています。すると彼は、単に連れて来ただけでなく、2つに裂いて向い合せに置いたのでした。彼は契約の儀式を知っていたので、言われなくてもちゃんと準備をしたのでした。(この聖書箇所は後でもう一度開けるので、そのまま開けておいてください。)

古代の契約の儀式においては、契約の両者がその獣の間を通過し、こう言うのがしきたりでした。「もし私が契約を破るなら、この獣のようになりますように」。つまり、破った時の呪いを宣言するのは契約の重要要素なのです。

今はどうか知りませんが、私の小さい頃は子供たちが「指切りげんまん、嘘ついたら針千本飲~ます」と言っていました。これも原理は同じです。その語源は、嘘をついたら「指を切り」、げんまん=拳骨で1万回なぐり、その上に針を千本飲ませるということです。針を千本ではなく、ハリセンボンという魚だという説もありますが。

しかし、聖書の時代から、こうして大層な契約しておきながら強者が弱者との契約を踏みにじることが多かったようで、エレミヤ34:18には、そういうイスラエルの政治家や祭司たちが呪いを受けて半分に裂かれるという記述もあります。

百人一首には「忘らるる 身をば思はず 誓ひてし 人の命の 惜しくもあるかな」(右近)という女流歌人の歌があります。これも同じ原理で、神の前で永遠の愛を誓ったの相手に裏切られた右近が「私が忘れられるのはいいけど、あなたが神罰で死ぬのは可愛そうだわ」という皮肉を込めた歌です。洋の東西を問わず、約束となると、同じ原理があるのは興味深い事です。

d.永遠の保証

エレミヤ書31章の35~36節に注目して下さい。ここは、簡単に言うと「昼と夜のサイクルが続く限り、神はイスラエルを捨てない」という意味です。

これと似た表現が日本にもあるので、もう一首だけ百人一首から引用してみましょう。「契りきな かたみに袖をしぼりつつ 末の松山 波越さじとは」(清原元輔)という歌です。こちらは男性の歌人で、やっぱり裏切った相手をなじる歌です。「お互いに袖をしぼるくらいに涙を流して約束したじゃないか。末の松山を波が越さない限り、私たちの愛は変わらないと…」という意味です。

「末の松山」は宮城県多賀城市にあり、海岸から約2キロにある、標高約10mの高台です。「決して波が超えない」という象徴的な意味だと思っていたら、何と驚いたことに、この歌の数十年前に起きた貞観津波で周辺が水没した中、末の松山だけ波が及ばず、難を免れたという故事があったのです。周辺の標高は2~3mですが、そこだけは一段高く約10mの高台なので津波が止まるのです。今回の大津波でも、やはり末の松山で波が止まりました。地元ではよく知られていた、この歌を防災に活かしておけば、もう少し被害を軽減できたと悔やむ声もありました。

しかし、エレミヤ35~36は、昼と夜のサイクル、寄せては返す波が変わらない限り、イスラエルの民が消える、つまり神が約束を破られることは無いと宣言します。これは、単に「変わらないこと」という修辞的表現という面もありますが、それ以上に、昼と夜のサイクルを動かしておられる神ご自身が、自らそれを約束し、自らそれを果たされるのです。

e.片務契約と遺言

でも、ちょっと待ってください。今日の朗読箇所の32節で神は「彼らはそのわたしの契約を破った」と、いとも簡単に約束が無効になっているではありませんか。古い契約が破棄できるなら、新しい契約はなぜ永遠だと言えるのでしょう。

ここで私たちは、双務契約と片務契約の違いを学ぶ必要があります。そこで、もう一度、創世記15:7~21の契約の箇所を見て下さい。創世記15章の契約は、アブラハム契約と呼ばれる契約で、今日の朗読箇所にある2つの契約とはまた別の契約なのですが、片務契約の典型例です。(アブラハム契約など、他の多くの契約を説明する時間はありませんので、日を改めて学ぶことにしましょう。)

17節では奇妙なことが起きています。裂いた獣の間を「煙の立つかまど、炎の出るたいまつ」、つまり神の臨在(シェキナー)が通り過ぎていますが、アブラハムは「深い眠り」(12節)のおかげで、身体が動かず、ただ見ているだけなのです。「深い眠り」は、タルデマという言葉で、見えて聞こえるのですが体が動かない状態を指します。何と、この契約で誓ったのは神だけであり、神だけが一方的に責任を負う「片務契約」(へんむけいやく)だったのです。この契約は、人の側からは破棄できません。

ところが「エジプトの地から導き出した日に立てた」(32)契約は、民と神が双方ともに責任を負う普通の「双務契約」でした。イスラエルは律法を忠実に行う義務を負っていたので、イスラエルが契約不履行の状態だったため、契約が機能しなくなってしまったのです。

そこで33~34節で語られる新しい契約を見て下さい。イスラエルはどんな責任を負っているでしょうか。何もありません。イスラエルに新しい心を与えて契約に従わせる責任は、何と、イスラエルではなく神ご自身が負っておられるのです。新約は、アブラハム契約と同様に、一方的に神だけが責任を持つ片務契約です。

皆さんは、片務契約などという器用なものは、聖書の中にしか存在しないものだと思われるかもしれませんが、そうでもありません。たとえば遺言契約は典型的な片務契約です。相続する側には何の義務も無く、ただ相続放棄さえしなければ遺産を手にすることが出来ます。神との契約を遺言にたとえる表現は、新約聖書のガラテヤ3:15、ヘブル9:16などに登場します。実はギリシャ語で「契約」を意味する「ディアセーケー」には、遺言という意味もあるのです。

f.神と契約するには

さて、エレミヤが語る契約は、世界最強の神が私たちを保護して下さるという契約です。しかも、私たちが正しい動機で神に従えるように神の側で責任を取って下さるので、私たちがどんなに不忠実でも取り消されることがありません。とても有難い契約なのです。

では、どうすればこの契約に参加できるのでしょうか。今日の朗読箇所の冒頭を見て下さい。この契約の対象者は「イスラエルの家とユダの家」です。ユダヤ人でない皆様、ここであきらめる必要はありません。

「ユダ族、ダビデの末」であるキリストの花嫁になればよいのです。キリストの名を呼び、その贖いを受入れましょう。どうか聖霊の導きがありますように!

(了)

 

\ この記事をシェアする /
SKK 聖書研究会 大阪センター
タイトルとURLをコピーしました