2019年10月メッセージ「ヘブル人への手紙―旧約時代の福音」

牧師からのメッセージ

2019年10月20日 日曜礼拝メッセージ
テーマ: 「ヘブル人への手紙―旧約時代の福音」

旧約聖書の各書は、歴史的記録、詩歌、格言集、預言などとして、ある程度、一般的な読者を想定して書かれています。しかし、新約聖書の中の多くの書は「手紙」という形で書かれました。
その中でも多くの手紙を書いたのがパウロです。パウロの手紙には際立った特徴があります。それは冒頭に「パウロから誰々へ」という挨拶の言葉があることです。ところが、ヘブル人への手紙には、その挨拶がありません。しかし、最後の部分を読むと、テモテのことに言及しています。どうやら、この著者はパウロやテモテに近い人物だったようです。パウロやテモテの近くにいて、これほどの文章が書ける人がいたのでしょうか。そう考えるとパウロかもしれないと、多くの人は考えました。
そこで、英語の欽定訳は、大胆にも題を「パウロからヘブル人への手紙」とやってしまったので、それが教会の標準になりました。しかし、今なお誰が書いたか確定的なことはわかりません。
しかし、たとえそれがわからなくても、この手紙が重要であることは確かです。

手紙の宛先の重要性

この手紙の場合は、書き手よりも「宛先」となった人々を正しく理解することが重要です。
ある教会指導者が、手紙を書いたと想像して下さい。洗礼を受けたばかりの有能な青年には「聖書をしっかり学びなさい。たえず祈りを深めて、他の人を教えられるようになりなさい」と書きました。
一方、死の床にあり余命2ヶ月の人には「あなたは救いにあずかったことを感謝して、残りの日々を送りなさい。主の恵みは十分です」と書きました。
もし、この手紙が逆に配達されたらどうなるでしょう。若い人は怠けることになるし、死に直面した人は絶望すると思います。
これは単なる冗談ではありません。実際にこれと同じ性質のことが起こったのです。ガラテヤ書は、異邦人クリスチャンで、ユダヤ人になりたいと考えている人々に宛てて書かれました。ところが、教会の人々はこれを、イエスを信じたユダヤ人信徒に適用したのです。そして彼らに「ユダヤ人をやめなさい」と教えたのです。
この間違いを「発見」した人の一人が、私たちが敬愛するヨセフ・シュラム師です。わかってみれば、とても簡単な話ですが、彼は大反対に遭いました。でも、今日では多くの人々がその見解を受け入れています。パウロの一貫した見解は「ユダヤ人はユダヤ人であり続け、異邦人は異邦人であり続ける」というものだからです。

この手紙の宛先は?

では、ヘブル書は誰に向かって書かれたのでしょうか。いくつかのヒントを見てみましょう。まず、1章の天使とキリストの比較から始まります。たぶん、皆様の中で天使とキリストを比較して、天使が重要だと考えている人などおられないでしょう。でも、最も重要な書き出しの部分で、この手紙の著者がそれを持ち出しているのは、それが読者にとっては大問題だったからなのです。読者は多分、天使礼拝をする人々だったのでしょう。
また、3章には、モーセとキリストも比較されています。これも、クリスチャンにとっては、ほとんど無意味な比較です。誰も、モーセの方がキリストよりも偉いとは思っていませんから。
そして、この手紙の読者は、ユダヤ教のことに精通していましたが、不思議なことに「神殿」「宮」という言葉が使われず「幕屋」が使われます。それはたぶん、読者が腐敗した神殿祭儀と祭司制を忌み嫌っていたからだと思われます。
さらに、10章の後半を読むと、読者の人々は昔、かなりの迫害に遭い、財産さえも失っていたことがわかります。彼らは十字架の後すぐに信じ、ずっと熱心に信仰を保ち続けて来た人たちでしたが、なぜか確信を徐々に失いつつあったのです。
昔は熱心だったのに、信仰がマンネリ化して弱ってくるというのは、ありがちなことです。そんな時、この書を読んでみると、何かヒントが見つかるでしょう。
ただし、この手紙がヘブル人=ユダヤ人に宛てて書かれていることには注意が必要です。たとえば、2:16には、キリストが「アブラハムの子孫」を助けたと書いてあります。当然、ここでは異邦人が無視されています。そこで、たとえばローマ書4章などをもとに、アブラハムの信仰の足跡をふむ私たちも、そこに加えられていることを、補って読まなければなりません。これは私たちにとっては大きな問題点です。

旧約の「福音」とは?

さて、ヘブル書の3~4章には「安息に入る」という主題が登場します。これは、ヘブル書における重要な「序論」です。

4:1 それだから、神の安息にはいるべき約束が、まだ存続しているにかかわらず、万一にも、はいりそこなう者が、あなたがたの中から出ることがないように、注意しようではないか。
4:2 というのは、彼らと同じく、わたしたちにも福音が伝えられているのである。しかし、その聞いた御言は、彼らには無益であった。それが、聞いた者たちに、信仰によって結びつけられなかったからである。

「安息に入る」というと、ただ単に仕事を休めばいいように思われがちですが、そうではありません。安息日は「聖なる日」であり、敬虔な人々は沐浴して体を清め、晴れ着を着てこの日を迎えます。これは、ユダヤ人なら誰でも知っていることなので、あえて説明されていません。要するに、罪のあるままでは真の安息には入れません。私たちにとって衝撃的なのは、2節の「彼らと同じく」という箇所です。何と、旧約の人々は「福音」を聞いていたのでしょうか?
この文意は、明らかに同じ「福音」つまり安息への道が旧約の人々の前にも、新約の私たちの前にも開かれていて、私たちも努力しないと入れてもらえない、という意味です。これは衝撃的です。私たちも「努力」しないといけないのでしょうか。
彼らは6章にあるように、初歩にとどまっていたのでした。人間、同じことばかり学び続けていると、だんだん慣れっこになって意味を考えなくなってしまいます。それだけではありません。彼らは希望を失いかけていました。主が再臨されると聞いていたのに、何十年たっても何も起こらなかったからです。そこで彼らは元のユダヤ教に戻りかけていたのでした。

手紙の著者が勧める「堅い食物」

彼らは人から「神の言葉の初歩」(5:12)を教えてもらわなければならない状態でした。そんな状態の人々に、手紙の著者が「神の許しを得て」(6:3)勧めているのは、もっとハイレベルの真理、奥義でした。それを著者は渾身の力を込めて書いているのです。
安息への道は、神が厳しく見張っているので、少しでも罪のある者は入れません。「しかし、皆さんがすでに信じているイエスは、実はメルキゼデクに等しい大祭司であり、だから皆さんは安息に入る希望を捨ててはいけない」というのが、6章後半から展開されている、この手紙の「本論」です。
イエスがメルキゼデクに等しい祭司だという奥義は、読者にとっては非常に関心がある事柄でした。彼らはみな、罪や穢れに関心を寄せていましたが、それを清めるはずの神殿が穢れているので、とても困っていたからです。

大贖罪日の重要性

ユダヤの秋の祭の中で、大贖罪日(ヨム・キプール)という祭があります。この祭の際には、犠牲の山羊によって民の罪を贖う儀式が執り行われました。その時、年に一度だけ大祭司が至聖所と言われる場所に入ったのです。そして民は皆、断食して一年分の罪を悔い改めました。
これは、とても重要な儀式で、それによって民の罪が贖われると、人々は喜んで仮庵の祭を迎えました。この「罪を取り除かれて、喜びの時間に入る」というモチーフは、ヘブル書の伏線となっています。罪を取り除かれないと、安息には入れてもらえないのです。
でも、重大な問題がありました。その重要な儀式を行う神殿は、イスラエル史上かつてなかったほどに腐敗していたからです。大祭司職は金で売買され、全く信仰の無い人々が、商売のために神殿を運用していました。
でも、神殿でこの儀式に参加する以外に、民の罪を取り除く方法はありません。これは、神殿を忌み嫌っていたと思われる、この手紙の読者には大問題だったのです。だから、彼らは本当に真剣に、この手紙を読んだのではないかと思われます。

革命的な新しい教え

そこで、この手紙の著者が持ち出すのが、レビ系の祭司ではない、メルキゼデク系の祭司こそが、本物の祭司だ、という革命的な教えです。
メシアの型として最もおなじみの人物はダビデです。それは新約聖書のあちこちに登場しますが、不思議なことに「なぜダビデがメシアの型なのか」という説明は一切ありません。なぜでしょうか。それは、それが「自明」のことだったからです。皆さんは日本人の友人に手紙を書く場合「日の丸を見て感動しました」と書けば十分です。「日本の国旗は日の丸と言い、白地に赤い丸が入ったものです」などと書く必要はありません。
ところが、メルキゼデクが大祭司メシアの型であるという話は、新約聖書の中に、ヘブル書以外には一度も出て来ません。しかし、ヘブル書の説明は非常に詳しいのです。読めばわかるので、ほとんど注解の必要がありません。これは、この手紙の著者が、読者の全く知らなかった情報を説いていたことを示しています。これは、革命的な教えでした。著者は、読者を励ますために、新しい教えを説いたのです。

ヘブル書を読んでみよう

さて、この手紙の結論は「大祭司イエスが私たちを罪から清めてくださる」ということですが、それは私たちが、すでによく知っていることです。
この手紙は、私たちの知らないことを論拠にして、私たちのよく知っていることが論証されているのです。これはちょうど、無線工学でスマホの仕組みを説明した本のようなものでしょう。書いてあることを理解しなくても、スマホが使えることに変わりはありません。でも、無線工学の専門書を読めば、普段使っているスマホが、どんなすばらしい技術に支えられているかを知って感動できます。
ヘブル書も同じで「イエス様を信じれば罪が赦されます」という、どこの教会でも教えていることに、すごい背景があることがわかって感動できるのです。
今日はヘブル書を読む「ヒント」を、いくつかお教えしました。ぜひとも家でこの手紙を読んでみて下さい。きっと新しい発見があるはずです。

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SKK 聖書研究会 大阪センター
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