2019年11月10日 日曜礼拝メッセージ
テーマ:「神による選び」
聖書は「真理の書」とも言われます。この言葉を聞くと、人が真理を探し求めた記録だと考えがちですが、それは大きな間違いです。人は確かに、時々真理を求めることもありますが、概して、真理から逃げ回っていて、神が嫌がる人間に無理に真理を教えようとする、というのが聖書本来の筋なのです。今日は、その図式を象徴的に示している、イエスの2つのたとえ話を学んでみたいと思います。
2つの宴会のたとえ
その2つの例話は「宴会のたとえ」と言われるもので、一つはマタイ22章、もう一つはルカ14章にあります。
これらを別のたとえ話と考える人と、1つのたとえ話が、記録する人によって異なって記録されたと考える人があります。ですから「イエスは何個のたとえ話を語ったか」という議論をする時は、2個と数えるか、1個と数えるかが大問題です。でも、そういう議論が起こるのは、これらの2つの例話がとてもよく似ているからなのです。
では、この2つの例話を読んで、まずは共通項目を探してみましょう。なぜ共通項目から考えるかというと、それはたぶん重要である可能性が高いからです。聖書の中では、重要な教えは、たいてい何度も繰り返されています。
先に違いから見て行ったら、話が広がってしまって、何が何だかわかりません。ですから、「共通の教えから読み解く」というのは有益な原則です。
マタイによる福音書 22章1~7節
22:1 イエスはまた、譬で彼らに語って言われた、
22:2 「天国は、ひとりの王がその王子のために、婚宴を催すようなものである。
22:3 王はその僕たちをつかわして、この婚宴に招かれていた人たちを呼ばせたが、その人たちはこようとはしなかった。
22:4 そこでまた、ほかの僕たちをつかわして言った、『招かれた人たちに言いなさい。食事の用意ができました。牛も肥えた獣もほふられて、すべての用意ができました。さあ、婚宴においでください』。
22:5 しかし、彼らは知らぬ顔をして、ひとりは自分の畑に、ひとりは自分の商売に出て行き、
22:6 またほかの人々は、この僕たちをつかまえて侮辱を加えた上、殺してしまった。
22:7 そこで王は立腹し、軍隊を送ってそれらの人殺しどもを滅ぼし、その町を焼き払った。
22:8 それから僕たちに言った、『婚宴の用意はできているが、招かれていたのは、ふさわしくない人々であった。
22:9 だから、町の大通りに出て行って、出会った人はだれでも婚宴に連れてきなさい』。
22:10 そこで、僕たちは道に出て行って、出会う人は、悪人でも善人でもみな集めてきたので、婚宴の席は客でいっぱいになった。
22:11 王は客を迎えようとしてはいってきたが、そこに礼服をつけていないひとりの人を見て、
22:12 彼に言った、『友よ、どうしてあなたは礼服をつけないで、ここにはいってきたのですか』。しかし、彼は黙っていた。
22:13 そこで、王はそばの者たちに言った、『この者の手足をしばって、外の暗やみにほうり出せ。そこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう』。
22:14 招かれる者は多いが、選ばれる者は少ない」。ルカによる福音書14章16~24節
14:16 そこでイエスが言われた、「ある人が盛大な晩餐会を催して、大ぜいの人を招いた。14:17 晩餐の時刻になったので、招いておいた人たちのもとに僕を送って、『さあ、おいでください。もう準備ができましたから』と言わせた。
14:18 ところが、みんな一様に断りはじめた。最初の人は、『わたしは土地を買いましたので、行って見なければなりません。どうぞ、おゆるしください』と言った。
14:19 ほかの人は、『わたしは五対の牛を買いましたので、それをしらべに行くところです。どうぞ、おゆるしください』、
14:20 もうひとりの人は、『わたしは妻をめとりましたので、参ることができません』と言った。
14:21 僕は帰ってきて、以上の事を主人に報告した。すると家の主人はおこって僕に言った、『いますぐに、町の大通りや小道へ行って、貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の悪い人などを、ここへ連れてきなさい』。
14:22 僕は言った、『ご主人様、仰せのとおりにいたしましたが、まだ席がございます』。14:23 主人が僕に言った、『道やかきねのあたりに出て行って、この家がいっぱいになるように、人々を無理やりにひっぱってきなさい。
14:24 あなたがたに言って置くが、招かれた人で、わたしの晩餐にあずかる者はひとりもないであろう』」。
二つの例話の共通点は?
どちかも、宴会(あるいは婚宴)のたとえです。主人は宴会を計画して、人を招きました。全ての人を招いたわけではありません。招かれた人と、招かれなかった人がいるのです。そして、ある程度の時が経ってから、宴会の準備が整います。そこで主人は招いておいた人々を招くために、自分では行かずに「僕」を派遣します。
ところが、招かれた人々は一様に理由をつけて行かないのです。どうやら、招かれた人々は招かれていることを認識していたようですが、行きたがらないのです。マタイの方では無視する人や、僕を捕らえて殺す人も現れます。この筋は、最初に述べたとおり、「人が神を探す」のではなく、「神が嫌がる人間を何とか捕まえようとする」というものですね。とにかく、招いておいた人が誰も来ないので、主人は大いに怒ります。
そして、主人は今まで招かれていなかった人々を招き入れます。ここでも「僕」が派遣されますね。2つの話で多少話が違いますが、悪人や体の不自由な人々から始まって、手当たり次第に人々が招かれます。
そして、2つの例話に共通するのは「席がいっぱいになる」という点です。主人は席をいっぱいにしないと納得しないのです。そして最後の結論は、招かれているからといって、晩餐にあずかれるとは限らない、という警告です。
神は人を選ぶのか
さて、この物語は明らかに神が人を招くという筋です。最初に招かれた人と、招かれなかった人がいるという筋は、とても不公平なように思われます。
しかし、現実世界を見ていると、人は生まれながらに同じ条件ではありません。先ごろ、大学の入学試験に関して、お金がある人が有利だという指摘を受けて「身の丈に合わせて」と発言したため大変な問題になりました。しかし、教育熱心でお金もある家に生まれた子供と、教育に全く無関心で、親がパチンコばかりして暮らして遊んでいる家に生まれた子供に、大きな差があるのは周知の事実です。逆に、教育熱心な親の子供と、教育に無関心な親の子供が、全く同じレベルの教育しか受けられないとすれば、これまた別の意味での不公平になるでしょう。
人間は全て同じではありません。難しい数学の問題を簡単に解いてしまう天才児、美術が得意な天性の才能を持つ子供、音楽が得意で生まれつきの絶対音感のある子、体育が得意で天才的な運動能力を持つ子供もいます。また、生まれる国や時代も、誰も選べません。人は神の設定した条件のもとにこの世に生まれて来ます。
現代でも、クリスチャンの家庭に生まれる人と、そうでない家庭に生まれる人で、聖書に触れる機会には雲泥の差があります。でも、良い条件を持っている(=招かれている)人が、必ずしも良い結果にあずかるとは限りません。悪い条件の人もまた招かれる機会があることを、この例話は教えています。
人は神の選びに抵抗している
神の選びについての理解については、カルヴァン主義とアルミニウス主義という、2つの神学的な流れがあります。前者は、福音を拒否することも含めて、全て神が決定しておられるという見解です。絶対的な主権を持つ神が選ばれたら、人は抵抗できない(不可抗的恵み)というわけです。一方、アルミニウス主義では、神の選びに人は抵抗できる(可抗的恵み)と考えます。
この両派は長年論争を続けてきたのですが、どちらも言い分があります。これは「結婚は愛か社会制度か」というような話と少し似ていて、一種のパラドックスなのです。人の応答を過大に評価すると、神様の選びの重要性がぼやけてしまうし、かといって神様の選びが全てだと言い切ってしまうと、特にこの例話は理解が困難です。
「神は人をお選びになるが、それに人が応じないとお怒りになる」というのが、この例話のポイントです。最初に選ばれた人々は、神の選びを拒否してしまったのでした。これはユダヤ人のことだと解されていますが、私たちクリスチャンも選びを拒否するなら結果は同じです。
最初に招かれた人々は、それに応答して実際に宴会に出席するかどうかを試されました。そして「無理やり」と書かれているところを見ると、後から連れて来られた人々も、あまり喜んで来たのではないようです。結局、この物語を通じて「人は神の選びを迷惑だと感じる」ということがわかります。それに、後に招かれた人々も、マタイにおいては「礼服」の有無を問われています。それが何を象徴するにせよ、私たちは神の選びや招きに何らかの「応答」をする必要があるのです。
あなたは例話の中の誰ですか?
さて、この物語の中で、皆さんは自分がどの人だと思われますでしょうか。最初に招かれた人々がユダヤ人を指すとすれば、どうもそれではないようですね。
後から選ばれた人でしょうか。彼らは、決して優れた人ではありませんでした。マタイの方では「悪人」が優先ですし、ルカの方では「体の不自由な人」が優先です。今日の礼拝に参加された皆様は、悪人でも体が不自由でもないようなので「道や垣根」のところから、無理に集められたのかもしれません。とにかく、誰かの招きか、広告を見たのか、様々な導きで、宴会の「部屋」まではやって来られたのです。
ところで、日本国際ギデオン協会(ホテルや学校で聖書贈呈を行うキリスト教団体)の人が、この例話を読むと、彼らは自分が「客」だとは考えません。彼らは自分が「僕」だと考えるのです。実は私も元ギデオンなのですが、数年前、この「道やかきねのあたりに出て行って、この家がいっぱいになるように、人々を無理やりにひっぱってきなさい」という御言葉は、ギデオンの年間標語になっていました。
この「僕」は可哀そうに苦労が絶えません。招待された人の所に行けば侮辱されるし、下手をすると殺されかねません。道や垣根で人を招けば、喜んで宴会に来る人もあるかもしれませんが「無理やりに連れてきなさい」と言われている所を見ると、せっかくの宴会なのに、誰も来るのを好まないのです。
それでも、僕は休んではいられません。主人は「席がいっぱいになる」のを、首を長くして待っておられるのです。満席にならないと宴会は始まりません。
皆様へのお勧め
そこで、洗礼を受けておられない方々にお勧めします。どうぞ神の招きを受入れ、洗礼という「礼服」を身に着けて「宴会」に参加して下さい。せっかくの機会を無駄にされないよう、お勧めします。あなたの席は用意されています。そこにあなたが座るのを神様は待っておられるのです。ぜひとも宴会の祝福にあずかって下さい。
そして、すでに洗礼を受けておられる皆様にお勧めします。すばらしい天国の宴会に招かれた皆様は、もっと多くの人々を招き入れるために集められた僕でもあります。席がいっぱいになって、宴会が一日も早く始まるように、共に働こうではありませんか。