2019年12月8日 日曜礼拝メッセージ
テーマ:「ダビデが使った世界最強の武器」
ダビデは旧約聖書の登場人物の中でも、最も重要な人の一人です。「ダビデの子」はキリストの称号の一つであり、新約聖書の冒頭にある系図は、実際にイエスがダビデの子孫であることを示そうとしています。ダビデはどんな人物だったのか、学んでみましょう。
サムエル記の概要
旧約聖書の物語の中心部分は、イスラエル王国の興亡です。ダビデは王国の2代目の王でした。彼の一生は旧約聖書の「サムエル記」と言われる部分に書かれています。実際に旧約聖書を開けて見て下さい。サムエル記は、上下二巻に分かれていますね。
この書が「サムエル記」と呼ばれているのは、サムエルという人の伝記から始まっているからです。サムエルは預言者でしたが、彼は自分では何も書き残していません。サムエル記下は、サムエルの死後の物語ですから、サムエル記は誰かサムエル以外の人物が書きました。
サムエルの時期の預言者は、古典的預言者とも言われ、書を書き遺すことは無かったのです。それは、たぶん彼らが国王にビジョンを与え、国をリードする「与党」の側だったからでしょう。しかし、それから何百年かが経って王国が分裂する頃になると、王たちはもはや預言者の言うことなど聞かなくなりました。そして王は神のことを忘れ、他の神々を礼拝するようになると、預言者たちは為政者に耳の痛いことを言う「野党」に回りました。神から言葉を与えられても、それを王も人々も聞こうとしないので、やむなく彼らは書を書いたのでした。
サムエルは古典的預言者の最高峰の人物で、彼はイスラエル初代の王、サウルに油を注ぎ(任命し)ました。しかしサウルは権力を手にすると神に逆らったのでした。そこで神はサウルを捨て、サムエルは二代目になるダビデに油を注ぎます。それがサムエル記16章です。その箇所から学びを始めましょう。
人は外の顔かたちを見、主は心を見る。
ダビデはベツレヘムのエッサイという人の子供でした。そこへ、サムエルがやって来ます。サムエルは「おだやかな事のために来た」と言いますが、もちろんエッサイは何が用件かわかっていました。そして長男から順に連れて来るのですが、7人の兄弟は誰もサムエルの(神の)眼鏡にかないません。そこで示される原則は「人は外の顔かたちを見、主は心を見る」(16:6)です。
そこでサムエルは他に息子がいるかどうかを尋ねます。そしてダビデが連れて来られて、油を注がれるのです。ダビデは見栄えが良かったようなのに、なぜエッサイはこの重要な場面にダビデを最初から連れて来なかったのでしょうか。それは、彼があまりにも若すぎたからだとの見方もありますが、ユダヤ人たちの間では、詩編51:5の「見よ、わたしは不義のなかに生れました。わたしの母は罪のうちにわたしをみごもりました」から、彼が密通によって生まれた子供だったとする見方があります。確かに、それだとすればこの冷遇にも納得が行きます。
いずれにしても、ダビデは父親からは全く期待されていませんでした。何と、サムエルでさえも、兄たちの方が王にふさわしいと考えたのでした。それでも、神は誰からも期待されなかったダビデをお用いになったのです。人が全く期待していない人を、神はお用いになることが、往々にしてあるのです。皆さんが、人から期待されていないとしても、神に大きく用いていただけるかもしれません。
ゴリアテとの戦いから学べること
しかし、油を注がれたとはいうものの、ダビデが実際に王に就任するまでには長い年月がかかりました。その間に神はダビデを訓練されたのです。
チャンスは、意外な形で巡って来ました。イスラエル人とペリシテ人がエラの谷という所で対決したのです。ゴリアテという巨人が戦線に現れ「自分と対決する戦士を一人出せ」というのです。ゴリアテは巨人でしたから、小柄なイスラエル人の中に、自分と戦える奴はいないと思っていました。相手を侮辱して戦意を喪失させるつもりだったのです。彼は40日間も毎日戦線に出て来て、イスラエルの軍をののしり続けました。
ダビデは、父から従軍している3人の兄たちへの差し入れを託されて戦線にやってきます。そして、ゴリアテがイスラエルの軍をののしる言葉を聞いたのでした。そして人々から、ゴリアテを倒す者にはサウル王から大きな報奨金と王の娘、さらに免税特権が与えられることを知るのです。そこで発奮したダビデは、自分がゴリアテを倒すと言い始めます。そして彼は、ついにサウル王の前に出て行くのです。
サウル王は最初、ダビデをあまり信用しないのですが、あまりの熱意に負け、ゴリアテとの戦いに送り出します。彼は武具を身につけず、いつも羊飼いをしている格好のままでゴリアテの前に進み出ました。
ここは聖書の中でも最も有名な箇所の一つです。では、サムエル記上17章41~49節を読んでみましょう。ダビデがどんな武器でゴリアテを倒したのか、それに注意しながら聞いて下さい。
17:41 そのペリシテびとは進んできてダビデに近づいた。そのたてを執る者が彼の前にいた。
17:42 ペリシテびとは見まわしてダビデを見、これを侮った。まだ若くて血色がよく、姿が美しかったからである。
17:43 ペリシテびとはダビデに言った、「つえを持って、向かってくるが、わたしは犬なのか」。ペリシテびとは、また神々の名によってダビデをのろった。
17:44 ペリシテびとはダビデに言った、「さあ、向かってこい。おまえの肉を、空の鳥、野の獣のえじきにしてくれよう」。
17:45 ダビデはペリシテびとに言った、「おまえはつるぎと、やりと、投げやりを持って、わたしに向かってくるが、わたしは万軍の主の名、すなわち、おまえがいどんだ、イスラエルの軍の神の名によって、おまえに立ち向かう。
17:46 きょう、主は、おまえをわたしの手にわたされるであろう。わたしは、おまえを撃って、首をはね、ペリシテびとの軍勢の死かばねを、きょう、空の鳥、地の野獣のえじきにし、イスラエルに、神がおられることを全地に知らせよう。
17:47 またこの全会衆も、主は救を施すのに、つるぎとやりを用いられないことを知るであろう。この戦いは主の戦いであって、主がわれわれの手におまえたちを渡されるからである」。
17:48 そのペリシテびとが立ち上がり、近づいてきてダビデに立ち向かったので、ダビデは急ぎ戦線に走り出て、ペリシテびとに立ち向かった。
17:49 ダビデは手を袋に入れて、その中から一つの石を取り、石投げで投げて、ペリシテびとの額を撃ったので、石はその額に突き入り、うつむきに地に倒れた。
さあ、ダビデは何の武器を使ったでしょうか。石ですか? 石投げですか? 確かに石投げでゴリアテを倒したのですが、それは、あまり重要なことではありません。45節に注目して下さい。何が彼の「武器」なのか、ダビデは宣言していますね。そうです。「万軍の主の名」あるいは「神の名」ですね。
ゴリアテと、石投げで戦って勝てるわけがありません。だいたい、いくら正確に石を投げても、普通はその前にいる「たてを執る者」が防ぐので、戦士まで届くことが無いのです。しかも、彼は青銅のかぶとと、よろいを着ていましたから、少し頭を動かせば、かぶとが石を防いでくれます。だいたい、現在のパレスチナ人は似たようなやり方で、イスラエル兵士に石を投げているのですが、兵士の額に石が当たって戦死した、という話は、ほとんど聞いたことがありません。
しかし、ゴリアテはダビデを見て侮りました。そして、神の奇跡によってダビデは勝利したのでした。
では「神の名」とは何でしょうか。「神の名」は、「御名」「み名」「あなたの名」などと異なった書き方がされますが、全て同じ意味です。では、それを頭の隅に置いたままで、後の章に進みましょう。
ダビデ契約の重要性
ダビデに関する記事は、とても長いので要点だけをお話ししましょう。ゴリアテを倒したダビデは、一躍英雄となるのですが、それがかえってサウル王の嫉妬心を掻き立て、結局ダビデはサウル王に命を狙われる身となります。ここで特筆すべきなのは、ダビデは何度かサウル王を殺す機会を与えられながら、そのたびに「主に油注がれた者を殺してはならない」と言い、決してサウル王を殺そうとしなかったことです。ダビデがサウル王を殺さなかったことによって、神はダビデ王が過ちを犯した際にも彼を殺すことをしなかった、とも言えるでしょう。ダビデは、どうすれば神を喜ばせることができるのか、とてもよく知っていました。
しかし、ついにサウル王が死ぬ日が来ます。彼はペリシテ人との戦いに敗れ、殺されてしまうのです。ここでサムエル記上は終わりで、続きはサムエル記下になります。その知らせをもたらした若者が自分がサウル王を殺したと言うと、ダビデは「あなたは自分で自分を有罪にした」と言って、その若者を殺させます。これは、政治的に言えば、サウル王に従う人々の間でダビデ王の評判を高める結果をもたらしました。彼は政敵を味方につけたのです。
そして、ダビデはイスラエルの十二部族を統合する王権をしっかりと確立します。彼はエルサレムをエブス人から奪い、王国の首都とします。そして、エルサレムに居を構えたダビデは、神の家(神殿)の建設を目指すのですが、神はそれを許可されません。その代わりに、神はダビデの家(家系)を長く(永遠に)堅く建てると約束されました。これが「ダビデ契約」と言われていて、メシアのことを指し示しているとされます。
その神の約束に応答するダビデの言葉を、サムエル記下7:25-26で読んでみましょう。
7:25 主なる神よ、今あなたが、しもべとしもべの家とについて語られた言葉を長く堅うして、あなたの言われたとおりにしてください。
7:26 そうすれば、あなたの名はとこしえにあがめられて、『万軍の主はイスラエルの神である』と言われ、あなたのしもべダビデの家は、あなたの前に堅く立つことができましょう。
おや、ここでまた「あなたの名」が出て来ましたね。ダビデの家が長く続くことと、神の名にどういう関係があるのでしょうか。神の名は敵を倒す武器にもなるし、ダビデの家系を長く守る盾にもなるのです。なぜでしょう。その疑問も頭の隅に置いたまま、次に進みましょう。
ダビデの姦淫と悔い改め (サムエル記下11~12章)
ダビデの生涯を通じて、最大の汚点と言えばバテシバとの姦淫(不倫)事件です。ダビデはある日、城壁の上を歩いていると、美しい女バテシバが水浴をしているのを見かけます。そこでダビデは彼女を召し入れて、寝てしまうのです。現在でもヤッフォ門の所から上がって、エルサレムの城壁の上を歩くことができるのですが、下で人々が様々な暮らしをしているのを見ることができます。
当時のエルサレムの人々は、たぶん城壁の上をダビデ王が散歩することなど、よく知っていたはずなのに、わざわざその時間に城壁から見える場所で水浴をするなど、これは「不注意」というより、「計画的な誘惑」であると見る人が大半です。バテシバは、結局これでソロモン王の母になったのでした。
しかし、不倫はともかく、次にダビデがしたことは神を怒らせました。邪魔になったバテシバの旦那であるウリヤを抹殺させたのです。そこで神は預言者ナタンをダビデの元につかわしました。もしここでナタンが「あなたは部下の妻を寝取った上に、その部下を殺した。何ということをしたのですか」と正面から叱責したら、1分後にナタンの命は無かったと思われますが、ナタンは非常に巧妙な言い方で、ダビデに悔い改めを迫りました。ここは面白いので、また家でお読みください。
ナタンの言葉を聞いたダビデの悔い改めの言葉は、詩編51編に残されています。彼は何と、この悔い改めの歌を聖歌隊に歌わせたのです。そして、ダビデは神の前に罪を告白し、「正しい心を与えてくれたら、あなたをほめたたえる」と言って神に赦しを嘆願します。ダビデは多くの詩を残していますが、他の詩編には、詩編23:3、25:11のように、「神の名」のために罪を赦し正しい道に導いて下さるように、神に訴える言葉が並んでいます。またここでも「神の名」が登場しましたね。神の名は世界最強の武器であり、ダビデの家を永遠に守る盾であり、またここで罪の赦しをもたらす力も持っていることがわかります。
み名とは何か
ではこの、まるで万能薬のような「神の名」とは何なのでしょうか。神の名というと、もちろんあの聖四文字(YHVH)のことではあるのですが、その意味は一種のミステリーであり、人間の理解を超えたものです。今日はその意味を説き明かすつもりはありません。
今日は、神の名がどのようなものであるか、その「性質」をご説明しましょう。もともと神に名があるのは、他の神と識別するためです。ダビデとゴリアテは、たがいに神の名を持ち出して対決しました。彼は大声で「イスラエル軍の神」の名で戦いを挑んだのです。そして勝てるはずの無い戦いに勝ちました。誰もが「これはイスラエルの神の業だ」とわかったのです。逆にダビデが負けたら、イスラエルの神は何も力が無いことになり、神様の「名折れ」になります。おわかりでしょうか。神の名は「名誉」なのです。逆に考えると、不可能な戦いで神の名を宣言したことによって、ダビデは神様に「名を上げる」機会を提供したとも言えます。神様がいくら奇跡を起こしても、その前に人が「神の名」を人々にわかるように宣言しておかない限り、決して神の名声は高まらないのです。
ある人が医学的にあと1週間で死ぬ状態だったとしましょう。その病人を神様が癒したとしても、それは単に「医者の診断が間違っていた」ことにしかなりません。しかし、ある人が「天の父よ、この人を癒して下さるように、イエス・キリストの名によって祈ります」と人々にわかる形で祈って、それから癒されたとしたらどうでしょう。「あの神様は本物かもしれない」と、誰もが真剣に考えると思います。ダビデは、この原理をよく知っていました。
罪の赦しも原理は全く同じです。ダビデは間違いの多い人間でしたが、それでもダビデは神が自分を選んで油を注がれたその責任をよく自覚していました。ダビデの罪を取り除き、彼を正しい道に導かないことには、神様の「名折れ」になるのです。だから彼は自分のためにも「神の名」のためにも、罪の赦しを願い求めました。
まとめ
最後に、お勧めです。洗礼を受けておられる皆様にお勧めします。皆様は、洗礼によって神の名を負わされていることを意識しておられますでしょうか。あなたはダビデがゴリアテを倒した、その世界最強の武器を身に帯びているのです。その名のゆえに皆様の罪は赦されたのです。ぜひとも、その武器を活用して、それふさわしい生き方をして下さい。
まだ洗礼を受けておられない皆様にお勧めします。聖書の勉強を何年続けても、良い人になろうと努力しても、大きな意味はありません。ぜひ、洗礼を受けて世界最強の名である「神の名」を身に着けていただくように、お勧め致します。神と人との前に信仰を告白して、洗礼を受けることは、神の名を身に負うことなのです。洗礼を受けた時、あなたは神のものになり、神の名があなたに記されるのです。その名によって、あなたは敵に勝利し、守られ、罪の赦しを受けられます。そうすればあなたの人生は変わるのです。