2020年2月メッセージ「畑に隠された宝」

牧師からのメッセージ

2020年2月9日 日曜礼拝メッセージ
テーマ:「畑に隠された宝」

≪聖書朗読≫ 詩編 78編1~8節

(アサフのマスキールの歌)
78:1 わが民よ、わが教を聞き、わが口の言葉に耳を傾けよ。
78:2 わたしは口を開いて、たとえを語り、いにしえからの、なぞを語ろう。
78:3 これはわれらがさきに聞いて知ったこと、またわれらの先祖たちが/われらに語り伝えたことである。
78:4 われらはこれを子孫に隠さず、主の光栄あるみわざと、その力と、主のなされたくすしきみわざとを/きたるべき代に告げるであろう。
78:5 主はあかしをヤコブのうちにたて、おきてをイスラエルのうちに定めて、その子孫に教うべきことを/われらの先祖たちに命じられた。
78:6 これは次の代に生れる子孫がこれを知り、みずから起って、そのまた子孫にこれを伝え、
78:7 彼らをして神に望みをおき、神のみわざを忘れず、その戒めを守らせるためである。

多くのたとえ話を語ったイエス

詩編78:2の「わたしは口を開いて、たとえを語り」は、マタイ13:35に引用されています。イエスが「たとえ」を語ったのは、この預言の成就だというわけです。しかし、詩編78編における「たとえ」は、イエスが語ったような「たとえ話」ではありません。詩編78編はとても長いのですが9節から最後までを読むと、延々とイスラエルの民族史がつづられています。それはまさに聴衆であるイスラエルが、昔から何度も聞かされて、しかも代々語り伝えてきた、その物語なのですが、それが「たとえ」なのだと、この詩編は歌っているのです。

ヘブライ語のたとえ(マシャル)には、ことわざ、格言、知恵の言葉、教訓など広い意味があります。壮大な民族史には多くの教訓がありました。それを拳拳服膺すべきだ、というのがこの詩編の意味です。

しかしイエスは、イスラエルの民族史ではなく、農業や漁業という、イエス在世当時のガリラヤの人々にとって身近な話題を取り上げて、神の国について語りました。マタイによる福音書13章には、七つの天国の譬えが記録されていますが、七は完全数なので、マタイは計画的に七つを記録したと考えられます。それらのうちいくつかは、マルコあるいはルカにも記録されています。

しかし、それらのたとえの意味の解説は、最初の2つと最後の1つにしかありません。マルコ4:34によれば、イエスは「すべて」のたとえの意味を弟子たちに解き明かされたということなので、きっと第3~第6の例話についても弟子たちには意味の説明があったはずです。そして51節によると、弟子たちはみなその意味がわかったようです。ところが、なぜかマタイはその記録を残しませんでした。

そこで、第3~第6の例話を読んでみると、いずれもわかったようでわかりません。自分でわかった気になっていても、誰かの注解を読んでみると、異なる解釈もそれなりに説得力があるので、だんだんわからなくなります。まだ私たちは43%(7分の3)しか、「天国の奥義を知る」(13:11)ことが許されていないのかもしれません。それでも、これらの例話が解説なしに聖書に書かれているのは、たぶん「あなたがたも、聖霊の導きを仰ぎつつ考えてみなさい」という命令なのでしょう。

こういう個所は、たとえて言えば「梅干し」のようなものです。それを食べると、ご飯を食べたくなる(聖書を学びたくなる)、というわけです。聖霊は人間が退屈しないように、いろいろと考えておられるのですね。

畑の宝のたとえを読む(マタイによる福音書13:44)

では、今日の主題であるマタイ13:44の「畑の宝」を読んでみましょう。

13:44 天国は、畑に隠してある宝のようなものである。人がそれを見つけると隠しておき、喜びのあまり、行って持ち物をみな売りはらい、そしてその畑を買うのである。

たった1節の短い例話です。皆様はどのようにお読みになりましたでしょうか。「畑に隠してある宝」は、たとえば永遠の命に至る道のように、普通に考えてもわからない奥義のことなのでしょうか。確かに天国の奥義は見つけにくいようですが、それにしても、発見者がその宝を隠したままで畑ごと買い取ろうとする、という下りがちょっと難解です。当時の法律制度上、宝は発見者ではなく土地の持ち主のものになったのでしょう。そこで、畑を買い取る前に、宝があることが明らかになると、畑の持ち主のものになるので、宝を隠したままで安く買って得をする、というのが物語の筋立てですね。

この例話はよくメッセージで取り上げられますが「気付かない場所に天国の奥義が隠されている」という意味で解釈する場合が多いようです。しかしながら、宝があることを隠して安く買い取る、という筋が何となくピッタリと説明できないのです。単に天国の奥義が思いがけないところに隠されている、という例話なら「野原を散歩していた人が、思いがけない所で宝を見つけたので、喜んで自分のものにした」でいいのではないでしょうか。わざわざ、再び隠しておいて、畑ごと代価を払って買い取る、という筋立ては非常に不自然です。

次の高価な真珠のたとえも「宝がすでに誰かの持ち物になっているので、莫大な代価を払って、それを買い取る」という所に強調点があります。こちらは、筋立て上、その真珠が高価なことを隠して、定価よりも安い代価を払った、という要素はありませんが、買い取るという要素は同じです。

しかし、人間が持ち物を売り払って天国の奥義、あるいは永遠の命を手に入れる、という解釈には重大な問題があります。それが「福音は神からの一方的な恵みである」という新約聖書の基本的な教えに逆行するのです。そこで、多くの説教者が「とはいうものの、人間が永遠の命に匹敵するほどの価値のある財産を持っていると誤解してはいけません。永遠の命は神様からの賜物です」という注釈を加えているのです。

他のたとえ話の解釈を参考にすると

ところが、この例話には全く異なる解釈があるのをご存じでしょうか。それを説明するために、七つの例話の構成とその意味を考えてみましょう。

第一(13:3-7)は種まきのたとえ(4種類の土地)です。これはイエス自身が解釈を示していて、種をまくのが神あるいはキリストであることがわかります。第二(13:24-30)の良い麦と毒麦もまた、主人は神またはキリストです。

第三(31-32)についても、からし種をまいた農夫は神またはキリストですね。からしの木は神の国、あるいは教会だと考えられます。ヨセフ・シュラム師は、それがイスラエルだという解釈を語っておられましたが、種をまいた農夫が神またはキリストであることは変わりません。

第四(33)のパン種のたとえは、前の例話と同様に、神またはキリストが神の国の福音を広める様子を説いていると考えられます。しかし、動作の主体が女であり、パン種も罪に関係していることから、悪魔の計略を説いたものだとする解釈もあります。ちなみに、ここに出てくる粉の量「三斗」というのは40リットルで、その莫大な量のパン生地が発酵してパンになると、風呂桶に一杯になって何百人分になります。これは明らかに世界的な規模の現象です。これが神の御計画か、悪魔の計略かについて私の意見を言わせていただくなら、「天国は……のようなものである」という言い方から、神のご計画と解するのが妥当でしょう。

第五・第六はさっき話し合ったので、飛ばして、最後の第七の網引きと魚のたとえを調べてみましょう。これも解釈が明示されており、網を引く漁師たちは神・キリストとその働き人たちのチームで、魚は人間たちですね。

隠された宝の、もう一つの解釈

そこで、他の5つの例話について考えてみると、すべての例話が個人の心の中を論じているのではなく、世界的な現象を論じていることがわかります。従って、すべて動作の主体は神・キリストだと考えられます。そこで、第五・第六の隠された宝と真珠のたとえもまた、世界的なことを説いており、動作の主体である宝の発見者や真珠商人は神・キリストだ、と考えられないでしょうか。そこで、その方向で解釈する人々も意外に多いのです。

神あるいはキリストが、隠されていた(失われた)人を発見して大いに喜ばれる、という筋はどこかで聞き覚えがありませんでしょうか。ルカ15章にある「九十九匹と一匹のたとえ」と「失われた金貨のたとえ」ですね。これらのたとえには、「買い取る」という要素がありませんが、隠された宝と真珠のたとえには、買い取るという要素が組み込まれています。神様は私たちを「高価で尊い」(イザヤ43:4)と見て、愛する御子の血という神ご自身の最も貴重な財産を払って買い戻されたのです。しかも、畑の宝のように、悪魔にわからないように全世界ごと買い取るという、十字架の業を示していると考えられます。

人生の中で、思いもよらない所に隠された永遠の命を「発見」するという解釈は、何となく私たちの生活感覚にはぴったり合うのですが、実はそれを「発見」させたのが神だ、という重要な視点が見失われがちです。でも、私たちが「畑ごと」買いとられる、という意味だとすれば、この例話は福音の力を物語っていることになります。

アメイジング・グレイスの歌詞

今日の賛美歌は「おどろくばかりの/アメイジング・グレイス」という名曲でした。その英文の歌詞に「 I once was lost but now am found 」という一節があります。これをクリスチャンでない人々に翻訳させると、たいてい「私は大切なことを見失っていたが、それを見つけた」と訳してしまいます。

でも、それは誤訳です。lost も found も be 動詞が付いていて、受動態になっている点を見落としてはいけません。これは、「私は(神様から)失われていたが、また(神様に)見つけていだいた」という歌詞なのです。たとえば公園で迷子になった子供が、また親に見つけてもらったような場面を、子供の側から言うと、ちょうどこのような表現になります。

福音と出会うのは、私たちの努力の結果ではありません。私たちが賢いから、熱心だから、注意深いから福音に出会えるのではありません。ただ、神様に「見つけていただいた」から出会えたのです。

この畑の宝のたとえは強力です。畑に宝があることを知っていて、神様は畑ごと買いとられたのです。今日の礼拝に参加しておられるみなさんの中には「私はまだ神様のものじゃない」、「まだ私は決心ができない」と思っておられる方もおられるかもしれません。でも、今日集まられた貴方は、間違いなく畑ごと買い取られているのです。買い取られているからここに来られたのです。

畑の持ち主が誰なのかは、畑をいくら調べても決して知ることはできません。登記所に行って登記簿を調べないとわからないのです。ここにある聖書は、貴方が隠されている畑の「登記簿謄本」です。

すでにキリストを受け入れた方は、今日のたとえを通じて、キリストに見つけていただいて、買い取っていただいたことを感謝しましょう。まだキリストを受け入れていない方は、聖書を読んで、早くキリストの贖いを受け入れていただければと願います。

 

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SKK 聖書研究会 大阪センター
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