2020年3月メッセージ「悪質な裁判官」

牧師からのメッセージ

18:1 また、イエスは失望せずに常に祈るべきことを、人々に譬で教えられた。

18:2 「ある町に、神を恐れず、人を人とも思わぬ裁判官がいた。

18:3 ところが、その同じ町にひとりのやもめがいて、彼のもとにたびたびきて、『どうぞ、わたしを訴える者をさばいて、わたしを守ってください』と願いつづけた。

18:4 彼はしばらくの間きき入れないでいたが、そののち、心のうちで考えた、『わたしは神をも恐れず、人を人とも思わないが、

18:5 このやもめがわたしに面倒をかけるから、彼女のためになる裁判をしてやろう。そしたら、絶えずやってきてわたしを悩ますことがなくなるだろう』」。

18:6 そこで主は言われた、「この不義な裁判官の言っていることを聞いたか。

18:7 まして神は、日夜叫び求める選民のために、正しいさばきをしてくださらずに長い間そのままにしておかれることがあろうか。

18:8 あなたがたに言っておくが、神はすみやかにさばいてくださるであろう。しかし、人の子が来るとき、地上に信仰が見られるであろうか」

失望せずに祈ることの重要性

この個所は1節にあるように「失望せずに祈る」ことの重要性を教えるためにイエスが語ったたとえ話です。私たちの教会は今から約90年前に始まったイスラエル回復の祈りを受け継いでいるのですが、この90年の歴史はまさに「失望せずに祈る」歴史だったと思います。

90年前といえば、まだイスラエルという国が無かった時代で、ちょうどシオニスト運動が始まってユダヤ人たちが帰還を始めていた時代です。多くの人々にとって、パレスチナにユダヤ人の国ができることなど、全く予想外のことでした。しかし、聖書に書かれた預言どおりにユダヤ人たちがイスラエルの地に帰ると信じた中田重治という指導者は、弟子たちにそれを教えたのでした。

それからしばらくして、ナチスに追われて東欧から日本に数千人のユダヤ人難民がやってきます。その半数はいわゆる「杉原ビザ」で来た人々でした。中田重治の教えに従った人々は、彼らの救援活動に関わることになったのです。日本に来たユダヤ人難民たちは、米国や中南米、オーストラリア、そして当時は英国の委任統治領だったパレスチナへと渡って行きました。

第二次世界大戦が終わると、中田重治の弟子たちは祈っていたイスラエル回復が実際に成就するのを見ることになります。実に、祈り始めてから15年の月日が流れていました。

しかし、私たちの祖先が祈っていたのは、ユダヤ人たちがイスラエルの地に帰ることだけではありません。彼らがイエス・キリストを信じることだったのです。私が生まれたのは戦後ですが、私も小さいころからイスラエル回復を祈っていました。小さい頃は、素直に言われたとおりに祈っていたのですが、そのうちに物事がわかってくるとユダヤ人がイエスを信じるのは「ありえない事」だと知り、また、私たちにイスラエル回復の祈りを教えた村岡太三郎牧師も召されてしまったのです。それでも私たちは、半ば習慣的に祈り続けていました。

ところが、それからイエスを信じる「メシアニック・ジュー」と言われる人々がいることを知り、エルサレムでヨセフ・シュラム先生と会う機会が与えられたのです。1997年のことです。これはものすごい衝撃でした。しかも、先生は「Twelve Jews Discover the Messiah/十二人のユダヤ人がメシアを発見した」というペーパーバックの本を下さったのです。その中に、シュラム先生の証や、ネティブヤメンバーの証も収録されていました。何と、私たちの知らない間に、ユダヤ人たちは、大挙してイエス・キリストを信じる運動を起こしていたのでした。

それを読んで、私はとても驚くと共に感動しました。私は何十年も、半ば習慣的に祈っていたのに、神はその祈りを聞いておられたのです。神は長く祈り続けると、実際に聞いて下さるのです。

神にはなんでもできないことはない

さて、祈りとは、このやもめ(夫と死別した女性)がしたように、神に何かを頼むことです。日本では、商売繁盛は戎神社、交通安全は成田山、受験は天満宮などと、それぞれ神様の専門分野があります。「とげぬき地蔵」など、とげを抜く専門の仏さんもあります。また、神様には支配地域というものがあります。神道では、その土地を支配する神に祝福を御願いするのが基本です。そこで、日本が植民地支配を広げた時代、外国に派遣された神道の神主たちは、何の神に、どう祈ればいいのかわからずとても困ったそうです。

土地と神が結びついているというのは、日本に限らず中東でもそうでした。たとえば、列王記下5章にあるナアマン将軍の逸話では、イスラエルに神がおられると知った将軍が、土を持ち帰っています。まるで甲子園の土を持ち帰る高校球児のようですが、要するに神様には支配する土地がある、というわけなのです。

そこで、祈る場合に私たちが第一に考えるべきことは、お願いしている事柄が、その神様の専門分野であって、しかも支配領域にあるかどうかです。そうでないと「それは私の専門分野ではない」と言われるでしょう。

しかし、聖書の神は全地の神であり、しかも全能です。神にはなんでもできない事はありません。それは、マタイ19:26、マルコ14:36、ルカ1:37、ルカ18:27などに書かれています。ですから、仮に不可能と思えることだって祈れば聞いてくださる可能性はあるのです。問題は神様にそれができるかどうかではなく、神様が聞いて下さるかどうかです。ですから、「しつこく祈れば聞いて下さる」というのは重要な教えです。

しつこく言わないと聞かないイスラエル人

今日の例話を読むと、二千年前も今も、イスラエル人の気質が変わっていないことがわかります。現代ヘブライ語には「フツパ」、つまり厚かましく要求するという言葉があり、また、しつこい人のことを「ヌードニック」と言います。日本でも厚かましくて、しつこい人はいますが、イスラエルほどではありません。

これは実話ですが、ある日本人の留学生が骨折して病院に行ったそうです。すると、受付の人が「そこで待ちなさい」と言うのです。痛いので「我慢できません、早く診てください」と言っても、「待て」と言われたので、辛抱強く待って、だいぶ時間が経ってから、やっと順番が回って来て診てもらえたのです。すると医者は「何てことだ! 複雑骨折してるじゃないか。何で今まで放っておいた!」と怒鳴るのです。処置をしながらスタッフ同士がヘブライ語で「こいつは頭がおかしいんじゃないか。黙って待つなんて考えられん!」と話し合っていたとか。まさに、イエスが語った例話と同じですね。イスラエルでは、しつこく言わないと動いてもらえないのです。

ただし、祈りが必ず聞かれるわけではありません。マルコ14:36(ゲッセマネの祈り)でイエスは、十字架の苦しみを取り除いてくださるように神に祈った後で、それでもなお「みこころのままにしてください」と付け加えました。パウロは体のことで三度も神に祈っても聞いてもらえなかった(Ⅱコリント12:7-9)と語っています。神はご自身のお考えがあるからです。

神が容易に祈りを聞かれない理由 (1)

では、神様はなぜ、すぐに言うことを聞かれないのでしょうか。旧約聖書には、子供がなかなか生まれない女性の話が出てきます。彼女たちは熱心に神に祈った結果、祈りが聞き入れられました。そして、特別な子供が与えられたのでした。たとえばイサクのように。

女性によっては、子供なんかいらないという人もいるかもしれません。でも、聖書に出てくるそれらの女性が、子供を望んでいることは明らかでした。それでも神は子供をお与えにならなかったのです。それはたぶん、特別な使命を持つ子供を産むために、それらの女性を訓練し、神に信頼して待ち望むことを教えたかったからではないかと思います。

すぐに子供が生まれたら、それは誰もが「当たり前」と思います。ところが、長く子供が生まれず、父母が待ち望んでいる状態で、特別なお告げを受けて子供が生まれたなら、それは神の奇跡だと人々は考えます。

ペテロたちが夜通し漁をしても一匹も獲れなかったのに、イエスが「舟の右側」(ヨハネ21:6)に網を下ろせと言い、その通りにすると大量の魚が獲れました。これも、夜通し漁をしても獲れない、という異常な状況があって初めて奇跡が成り立つのです。

神様が簡単に言うことを聞かれないのは、たぶん、人に熱心に求めさせたいからではないかと思います。それは「いじわる」なのではなく、人間に神を信頼して待ち望むことを教えるためなのでしょう。

神が容易に祈りを聞かれない理由 (2)

今日の朗読個所に最後には、もうひとつ興味深い一節があります。「あなたがたに言っておくが、神はすみやかにさばいてくださるであろう。しかし、人の子が来るとき、地上に信仰が見られるであろうか」(18)という個所です。「あなたがたに言っておくが」は、これから重要なことを言う、という語法です。選民が叫び求めているのだから「すみやかに」さばいてくださるはずなのですが、その後にある「地上に信仰が見られるであろうか」に注目しましょう。

「さばき」とは裁判ですから、正邪を決めなければなりません。もちろん神は、日夜叫び求める選民に都合の良い判決を出したいのです。でも、いくら不義な裁判官でも、裁判官であれば、全くのデタラメの判決は出せません。天地を治める神であれば、なおさらです。でも、もし地上に信仰が見られなかったら、どうなるでしょうか。神は人々を滅ぼさなければならないのです。地上に信仰が見られない、ということは選民にも信仰が無いということです。これでは、いくら都合の良い判決を出そうにも、出しようがありません。

だから神は滅びる人が少しでも少なくなるように、「ながく忍耐」(Ⅱペテロ3:9)しておられるのです。

まとめ

というわけで、裁判官である神様は、何とか、ギリギリまで正義を曲げて叫び求める多くの人を救おうとされています。私たちは第一に、選民と共に神に救いを叫び求めければなりません。そして第二に、その祈りが聞かれるという信仰を持ち、神様のご計画に協力する必要があります。

神は私たちが叫ぶのを待っておられるのです。一緒に祈って行きましょう。

 

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SKK 聖書研究会 大阪センター
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