2020年4月メッセージ「ガラテヤ人への手紙を学ぶ」

牧師からのメッセージ

2020年4月12日 日曜礼拝メッセージ
テーマ:「ガラテヤ人への手紙を学ぶ」
(ZOOMによるオンライン礼拝とし、神戸・大阪合同で実施)

聖書朗読 ガラテヤ人への手紙3章26~29節

3:26 あなたがたはみな、キリスト・イエスにある信仰によって、神の子なのである。
3:27 キリストに合うバプテスマを受けたあなたがたは、皆キリストを着たのである。
3:28 もはや、ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男も女もない。あなたがたは皆、キリスト・イエスにあって一つだからである。
3:29 もしキリストのものであるなら、あなたがたはアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのである。

執筆の目的

上記の個所はガラテヤ書の「結論」なのですが、これはどちらかというと「あたりまえのこと」
ではないでしょうか。キリストの前にあっては、民族、職場や社会での階級、男女の違いは問題
ではありません。でも、問題は「なぜそれを言わねばならなかったのか」なのです。
たとえば「選挙権」を考えてみましょう。皆さんは必ず投票に行かれるでしょうか。行かない方
々もおられるようですね。その昔、投票権を得るために、多くの人々が命をかけて戦って来まし
た。今は政府が一生懸命に投票率を上げようと宣伝している状態です。
それと同様に、ガラテヤ書は、今では「あたりまえのこと」が実現に至るための、大きなドラマ
の一場面を反映したものなのです。今日はそれを学びたいと思います。

新約聖書は、ほとんど全編がユダヤ人によって書かれており、イエスから直接教えを受けた弟子
たちは、全員がユダヤ人でした。実際、キリスト教はユダヤ教の一部だったのです。そこに多く
の非ユダヤ人(異邦人)が入って来ました。常識的に考えれば、イエスを信じるにはユダヤ教に
改宗する必要があるのですが、使徒ペテロをはじめとするユダヤ人の使徒たちは、ユダヤ教に改
宗しなくてもイエスを信じて救われると説いたのでした。この議論は使徒行伝の15章に記録さ
れています。
ガラテヤはトルコの中央部です。使徒パウロはこの地域に来て、多くの教会を設立しました。そ
の信徒たちは大半が異邦人(非ユダヤ人)だったのです。ところが、別の人々が来て「割礼を受
けてユダヤ人にならないことには本当には救われない」と教えました。そこでガラテヤの人々は
混乱に陥っていたのです。この問題を解決するために書かれたのが、ガラテヤ人への手紙でした

主要な論旨

パウロはこの手紙で1~2章で、自分にはこの問題について「権威」があると主張します。ある
人々がパウロと異なる主張をしているわけですから、まず問題になるのはどちらが権威があるか
です。そこでパウロは1章冒頭で「人々からでもなく、人からでもなく、……神によって立てら
れた使徒」と宣言します。
短い挨拶を書いたあと、彼は6節ですぐ本題に入ります。パウロは、ガラテヤの諸教会が「違っ
た福音に落ちていくことが、わたしには不思議でならない」と嘆いています。つまり、パウロが
彼らに教えたのとは違うメッセージを、誰かが後から伝えたのです。その人々は7節で「ある種
の人々」と呼ばれています。なぜそういう書き方をしたのか、後で考えることにして、先に進み
ましょう。
3章に入るとパウロは「ああ、物わかりのわるいガラテヤ人よ」と呼びかけ、異邦人は信仰によ
ってアブラハムの祝福にあずかれるのであり、ユダヤ人になる必要は全くない、と熱く語ります

4章12節では「兄弟たちよ。お願いする」と嘆願し、20節では「途方にくれている」と嘆き
、あらゆる論法でユダヤ人になる必要が無いことを、パウロは力説します。
手紙の最後の部分である6章を読んでみましょう。11節には「こんなに大きい字で、あなたが
たに書いている」とあります。パウロは目が悪かったので、小さい字が書けず、口述筆記人に書
かせていました。当時の羊皮紙は高級品で、大きな文字を書くと紙が無駄になったので、小さい
字が書ける人に頼んで書いてもらったのです。しかし、その手紙が本物であることを証明するた
めに、パウロはいつも、署名を書き添えたのでした。ところが、この手紙はその部分がとても長
いのです。パウロは思い余って、自分の手で結論を書き加えていることがわかります。

改宗を推進していた人々と、その背景

さて、この手紙の論旨は明確ですが、ガラテヤの教会の人々が、なぜユダヤ教に改宗しようとし
たのかは、容易には理解できませんね。キリスト教の中で、ユダヤ教に改宗しようとする人は時
々いますが、ガラテヤの教会の人々は大挙して改宗しようとしていました。ユダヤ人になって様

々な宗教戒律を守ることは容易ではないのに、なぜ彼らは改宗を目指したのでしょうか。
それを教えていた人々は、かなり言葉巧みに人々に教えていたようです。イエス・キリストを信
じるだけでは不十分で、ユダヤ人にならなければ「本物」でないと教え、改宗を勧めたのです。
なぜでしょうか。
大相撲のことを考えてください。相撲は日本の国技ですが、どの国の人でも力士になることがで
きます。力士になったからといって、日本に帰化する必要はありません。しかし、実際には多く
の外国人横綱や大関が帰化しています。しかし、いくら帰化しても、彼らは見るからに外国人で
す。これはとても微妙なアイデンティティーの問題です。柔道も昔は国技でしたが、オリンピッ
クの競技種目になってから国際化したため、日本に帰化しようとする柔道家はめったにいません
ね。ガラテヤ書が書かれた当時のキリスト教は、ちょうど現在の相撲のような状態だったのです

ガラテヤの教会の人々に、ユダヤ教に改宗するよう勧めていた人々は、聖書の他の個所にも何度
か登場します。たとえばピリピ3章です。ピリピ3章でパウロは彼らを、「犬ども」と非難して
いますが、本書1章7節では「ある種の人々」という、婉曲な語法を使っています。
彼らは、様々な状況証拠から、先に改宗した人々だったと見られています。ユダヤ教においても
改宗者を差別することは許されません。「やっぱりあれは本物のユダヤ人じゃない」などと、決
して言ってはいけないのです。だからパウロは、ここでも婉曲語法を使ったのでしょう。

改宗を勧めた2つの動機

彼らが改宗を勧めた動機は、6章12~13節に示唆されています。読んでみましょう。

6:12 いったい、肉において見栄を飾ろうとする者たちは、キリスト・イエスの十字架のゆえに、迫害を受けたくないばかりに、あなたがたにしいて割礼を受けさせようとする。
6:13 事実、割礼のあるもの自身が律法を守らず、ただ、あなたがたの肉について誇りたいために、割礼を受けさせようとしているのである。

ここから彼らに主に2つの動機があったことがわかります。
第一の動機は「肉について見栄を飾る」ことです。彼らは「どうだ、私は立派なユダヤ人になっ
たぞ」と誇り、自分が指導者になって支持者を増やそうとしました。彼らは、キリストの贖いに
よって救われるのではなく、自分の努力や律法を守ることで救われるかのように教えて、人々を
惑わしたのでした。
第二の動機は「迫害を受けたくない」ことです。実は、ローマ帝国にはいくつかの「公認宗教」
があり、それらは帝国の保護下にありました。しかし、「非公認宗教」は迫害される心配があっ
たのです。新興宗教だったキリスト教は迫害に遭ったので、それを嫌う人々は「私たちは立派な
ユダヤ教徒です」と主張したかったのでした。

その後の教会史は

パウロの主張は、最初に引用したように、ユダヤ人もギリシヤ人も等しく神に愛されている、と
いうことです。ガラテヤ書の全体を通じて「キリストを着た」、「キリストにあって一つ」など
、様々な表現を駆使してそれを説明した上で、パウロは最後に「もうだれもわたしに煩いをかけ
ないでほしい」(6:17)と、この手紙を締めくくっています。まるでパウロの溜息が聞こえてく
るようです。
パウロがこの手紙を書いた時代、教会の中にはユダヤ人信徒も異邦人信徒もいました。異邦人信
徒は、ユダヤ人信徒に対して、多少は引け目を感じていたかもしれませんが、パウロの手紙を読
んで少しは納得したと思われます。
しかし、残念ながら、それから数百年で状況は大きく変わり、教会は異邦人信徒のものとなって
しまいました。当初は引け目を感じていた異邦人信徒が中心となり、今度はユダヤ人信徒が引け
目を感じるようになり、ついに彼らは教会の中から消えてしまいました。そして、時々、イエス
を信じるユダヤ人が現れると、この手紙は彼らに「ユダヤ人をやめなさい」と教える論拠に使わ
れるようになってしまったのです。
もし、パウロがそれを知ったら、きっとまたもや熱い手紙を書いて「もうだれもわたしに煩いを
かけないでほしい」と言うことでしょう。この手紙は、異邦人に「ユダヤ人にならなくてもいい
」と説得する手紙であって、ユダヤ人に「ユダヤ人をやめなさい」と説得する手紙ではないから
です。

ユダヤ人の使命と異邦人の使命

では、最初の聖句に戻って、今日の学びをまとめてみましょう。

3:28 もはや、ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男も女もない。あなたがたは皆、キリスト・イエスにあって一つだからである。
3:29 もしキリストのものであるなら、あなたがたはアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのである。

「男も女もない」と書いてありますが、クリスチャンでも、やっぱり男女の役割の違いはありま
す。男は子供を産めませんが、その代わりに男性の得意分野もあります。それと同様、ユダヤ人
と異邦人にも役割の違いがあります。その違いがあっても、誰もが等しく、神に愛されているの
です。
ここでパウロが言う「アブラハムの子孫であり、約束による相続人」という意味は、やっぱり何
千年も前から神に従って来たユダヤ人がいてこそ理解できるのではないでしょうか。

さて、この手紙の背景にあるのは、何千年も昔から神に従って来たユダヤ人と、たった今、洗礼
を受けた異邦人が全く同質の救いにあずかる、という実に奇妙な神のやり方です。これは、「ぶ
どう園の労働者」のたとえ(マタイ20:1-16)にも書かれた原理ではありますが、ユダヤ人たちに
も異邦人たちにも、到底納得できない話だったことでしょう。
だから「もっと努力してユダヤ人にならないと救われない」と言われた異邦人は、みんな「やっ
ぱりそうか。そうなるはずだ」と納得して、洗礼を受けようとしたのでした。

でも、努力によって救われるという考えは間違いです。パウロにならって最後に「大きい声」で
申し上げます。永遠の命、救いはタダで与えられるものであり、努力とは何の関係もありません
。まだ洗礼を受けていない皆様は、ただ信じて悔改め、洗礼を受けるだけで、聖書に出てくる使
徒たちが受けたのと同じ救いを受けられます。ですから、一日も早く洗礼を受けていただければ
と思います。
一方、何十年も信仰を続けてきた皆様に申し上げます。その信仰経歴を誇ってはいけません。一
生懸命に努力した結果、「ごほうび」に救いが与えられると考えるなら、それはパウロの指摘す
る「肉において誇る」という態度なのです。どんなに苦労しても、私たちは「わたしたちはふつ
つかな僕です。すべき事をしたに過ぎません」(ルカ17:10)と言わなければなりません。救いは
完全な恵によるものだからです。

 

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SKK 聖書研究会 大阪センター
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